林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.24

第24回 中世のキーワード・座シリーズ借上・土倉・酒屋 (前)

たいがいの教科書には、中世の高利貸として借上・土倉・酒屋が挙げられています。
借上は「かしあげ」と読み、もともと古代の「出挙(すいこ)」の和訳と考えられています。
平安末期からこの語が使われ始めており、それが多く社寺関係だったことから、はじめは神社の神人が高利貸をし始めたようです。
それが鎌倉時代あたりから、蓄積した富をもとに借上になる者が増え始め、鎌倉に滞在する御家人相手に高利貸をする者が出てきました。
中小御家人が土地訴訟のために鎌倉に滞在し、その滞在費の工面のために武具、はては肝心の土地さえも借上に奪われてしまうことさえあり、鎌倉幕府は禁令を出しますが効果はなく、逆に彼ら高利貸は年貢の請負などを通じて地頭領主と結びつきを深めていきました。

地方では荘園代官が代官としての得分を資本に高利貸を営み、ますます富を蓄積させていたり、反対に地方の高利貸が借金のかたに名主職や代官職を取得するという動きも起こり始め、年貢請負や年貢取立てはますます複雑になっていきました。
年貢などは一般的に、御家人などの地頭や荘園領主の代官の在地武士が取り立てたということになっていますけれど、これに在地近くの借上が一枚噛んできているわけで、それと結びつく武士や土地の有力者などがいたりして、商人兼武士とか、武士兼商人という連中が輩出してきたのです。
在地の領主との結びつきを強くすると借上の社会的地位も向上し、各地の有力港にいた年貢や商品輸送を請け負う問丸などの有力商人も借上を営みだすなど、かつては乱暴者の代名詞だった「借上」は「泊々の借上」と呼ばれるようになりました。

彼らは火災や盗難に備えて土塗りの頑丈な倉を建て、ここに質物を保管していたことから、徐々に「土倉」と呼ばれるようになっていきます。
「土倉」はたいがい「どそう」と呼ばれており、「どぞう」とは呼ばれていません。
彼らの蓄積した富は、それこそ膨大なものだったらしく、銭に困った武士たちの持ってきた普通の武具類のほか、一つの荘園をまるまる押さえたりもしていました。
鎌倉幕府は彼らに倉役を課すということはしていませんが、鎌倉末期になって300軒近くの土倉ができた京都では、朝廷が始めて臨時課役を課しています。
その意味で鎌倉幕府は、時代もあったでしょうけれど、土地所有を基本にした政権であり、商人たちとは私的につながっていたとしても、公的には彼らと関係を持つことはありませんでした。
ちなみに、京都での土倉の数は、応仁の乱あたりまで大きな増減もなく続いていきました。

面白いのは比叡山の僧が土倉をしていたことで、これは平安末期から室町中期あたりまで続いていました。
京都における山門の勢威はやはり侮りがたいものがあり、朝廷が臨時課役を課したときも「山門気風の土蔵」は課役を免れています。
彼ら土倉を営む仏僧は、「妻子を帯び、出挙して富裕なるもの、悪事を張行し、山門に充満す」(『明月記』)とあり、法体をとり坊主と呼ばれながらも特権だけは享受して一家を成していたようです。

しかし南北朝の動乱に際し、彼ら土倉の富は諸国から上京してきた武士たちの垂涎の的だったようで、京都西七条などの土倉が武士たちに襲撃されたりもしています。
また、この頃になると庶民向けの金融も出てきたようで、「日銭の質」というのが『二条河原落書』にも取り上げられています。
「日銭」というからには、利子の計算が日割りで行われていたことをいい、それまでの月割り計算でない小口金融と考えられています。
この頃あたりから京都周辺に有力な武士たちが集まり始め、山門延暦寺の勢威も衰え出すと、俗人の高利貸・土倉の割合が増加し、幕府の役人であるとか有力守護の被官になるものが出てきました。
前述したように、町中であっても何かのどさくさに襲撃されることもあるわけで、彼らは財産の安全保証のためにいろいろな手を使ったということです。

こういうふうに富が蓄積してくると、土倉たちはその資本を元手に、今度は酒屋や味噌屋を営むものが出始めてきます。
酒や味噌というものは、まず麹と麹室が必要で、材料だけでなくある程度の施設も必要です。
特に麹室は温度を一定にしなければなりませんし、それが長期にわたる必要があり、資力がなければ民間では不可能でした。
しかし飲んべえは、どこの世界いつの時代にも山ほどおりますから、酒屋の利潤は大きく、投資するだけの価値はあります。
富の蓄積に目がない土倉たちがこういう美味い商売を見逃すはずもなく、京都をはじめ各地の土倉は酒屋を兼業してますます利潤をあげていきました。
彼らはどうも朝廷の酒麹を使っていたようで、一つの座として酒麹役という税を朝廷に納めており、これが鎌倉末期から始まっていることから、当時の朝廷と商人とのつながりが見えてくるようです。

旧「六郎光明の屋形」トップへ戻る

BACK


Copyright:2017 by mitsuaki hayashi-All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama