林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.22

第22回 中世のキーワード・座シリーズ 座商人の店舗

地方の定期市では店舗を持つ者持たない者が寄り集まって、それに近在からのお百姓など消費者が集まり、領主から遣わされた武士たちも加わって、室町以降の定期市はかなり賑わいを見せていたようです。
当時の賑わいを示すものとして、時代は少し遡りますが、よく教科書などに「一遍上人絵伝・福岡の市」の場面が使われています。
絵巻物などに出てくる定期市の様子で目を引くのは、店舗と言っても名ばかりの、柱を立てて、板など簡単なもので屋根を形作った仮店舗ばかりだということです。
しかし、こういう地方での定期市では当たり前のことながら、市が終わるとその場所は何もない、ただの空き地に戻ります。
市が開かれていた頃の賑わいを考えると、なおのこと、うら寂しく思えます。

市が開かれる場所は、多く交通の要衝や神社仏閣の近くで、街道沿いであることは言うまでもありません。
現代で似たような雰囲気を持つものを考えてみると、イメージとしてフリーマーケットに近いかなと思ったのですが、場所の雰囲気から言うと、やはり神社のお祭りに仮設店舗を連ねる、露天商の香具師(やし)のイメージです。
今でも開かれている、京都東寺の骨董市なども同じイメージですね。

人口の比較的少ない地域では、このような定期市でも充分間に合ったのですけれど、時代が下がるにつれて交通量も増え、港町、宿場町、門前町や城下町などの人口密集地域が全国に増え始めます。
そこで購買者の需要に応じて、店舗も京都や鎌倉のような、ちゃんとした構えを持った都市風のものが、あちらこちらに出現し始めます。
ちゃんとした構えと言っても、現在のような店舗が独立してあるようなものではなくて、普通の家屋の軒先に棚を作って、その上に商品を並べるといった、ごく単純なものです。
粗末なものでは壁に板をさし渡し、細い木柱で下を支える程度のものから、四角い棚そのものを張り出させた陳列台みたいなものまで、かなり雑多だったようです。
『洛中洛外図屏風』には、京都の町屋の様子が細かく描かれており、人の行き交いとともに、これら町屋の商店の様子も描かれていて、とても参考になります。

当時の店舗というものは一般の家屋の続きみたいなところがありまして、店舗だけという家は少なかったようです。
ただ京都の中でも繁華街となりますと、自宅とは独立した店舗もあったということですから、一概には言えません。
これらの店舗は、当時、「タナ」と呼ばれていました。
木棚を並べて店を構えるから「タナ」でして、本物の木棚の方は「見せ棚」と呼ばれていました。
今でもテレビの時代劇などでは店舗のことを「おたな」と言っていたり、古い商家でもそのように呼ばれていたりします。
もうおわかりですね。店舗のもう1つの言い方、「店(みせ)」の語源は、「見せ」または「見世(みせ)」です。
ただ「店」の単語は、室町時代以後に使われたということです。

これらの店舗は人の集まりを求めて無秩序に構えられるため、初めのうちは町屋の中あちこちに点在していました。
その町屋の中の人々が商売を始めるのではありませんから、これらの店舗はそのほとんどが貸家でした。
『洛中洛外図屏風』では、間口はだいたい3間(5.4メートル)程度ですから、そこそこの広さはあります。
奥行きはそれほどなく、現代の都会のように、奥の方まで家屋が続いて極端に密集していたということはなかったようです。
もともとが一般家屋ですから、裏の部分には小さな庭というか小畠などがあり、私的な耕作が行われていたようで、現代とはだいぶん違った雰囲気でした。

例えて言うと京都などの都市においても、人口集住地以外はかなり多くの耕地があったようで、平安京以来の京の都は、大路と築地の連なるイメージではなくて、町屋の密集する部分と、田畠が広がる地域とが混在していたと考えられています。
ですから洛中と言っても、現代から見ると名ばかりの狭い地域で、近隣の田畠に出作したりする者、金に物を言わせて近隣の名主職を取得して名主となり、耕作は他に請け負わす者などもいたようです。
フロイスの『日本史』でも、京都に教会を設立するにあたり、近所に住む雑多な人々や、地主、家主などとの交渉を繰り返すくだりがあり、そこには都市特有の雑多さが感じられます。

しかし一方で、同じ京都の町でも特定の商工業者が集住する地域も見られ、中世の京都はとても一言では言えないような都市でした。
基本的に当時の手工業では自然利用が当然でしたから、例えば織物には晒し用の、水の便のあるところ、莚を作る者は原料の手に入りやすい湿地帯近く、材木を扱う者は貯木の関係で河川や港近くといった具合に、それぞれの職種に応じて町屋を形成していったのです。
彼らは店舗を持つがゆえに「町人」と呼ばれ、担い売りの「商人」とは区別されました。
近世になると町人と商人は同義に扱われましたけれど、戦国大名の文書にはちゃんと区別して書かれています。

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