林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.10

第10回 「売買の話」(後)

前回では最後に「下地得分」についてちょっと触れましたが、今回はそのことについての話です。
まず、「得分」という言葉ですが、これは土地関係や年貢関係の史料にはやたらと出てきます。
この言葉自体がなんだか特殊な専門用語のような気もしますが、これは字を1つ加えるだけで簡単に意味が通じます。
「(取)得分」…いかがでしょう。要するに、「その権利を持っている人間の取得できる部分」という意味なのです。
学者先生の間ではこれに権利の「権」を付け加えて、「得分権」なんて言い方もします。

さて、ここで前に戻って今度は「下地」という意味ですが、これは本年貢を「上分」と言っていたことに対する用語です。
上の方の荘園領主に納める年貢が本年貢で、本来はこれだけ納めればいいのですが、荘園で事務や農業監督、河川の小さな修理(これを「勧農」と言います)を行っている荘官などにも、領主に代わって彼らの給料を出さなければなりません。

彼らの給料は本年貢のうちに含まれていたのですが、上級領主と違って地元にいる彼らは、当然領主よりも地元に詳しくなり、またそれぞれのお百姓の事情なども聞いて知っていますから、誰それのうちの田んぼは良く実るとか、誰々の田んぼは実りが悪いとか、ちゃんとわかってしまいます。
そうするとここで、欲の皮の登場です。米の取れないところに種籾とか銭を高利で貸し付け、取れるところには何らかの理由をこじつけて余分な米や銭を出させようとします。

もちろん百姓も後が怖いと知っていますから、そうそうおいそれとは誘いに乗りません。
ただ、この時代は天候不順がもろに収穫に影響しますから、不作の年が続いたりすると彼ら荘官の誘いを受けてしまい、高い利子を払わなければならなくなるのです。
こういう正規の年貢以外を「下地」と言い、また「加地子」と言っています。
「加地子」とは、新規に「加」えた「地子(税金)」という意味です。
こうして彼らは富を少しずつ貯めこんでいって、荘園に自分の力を浸透させていき、土豪や国人へと成長していったわけです。

旧荘園が惣村に変化して自治をするようになっても、この「加地子」や「下地」は生きていました。
それどころか旧荘官が戦に巻き込まれて没落したときなど、村の有力者がこの権利を買い取り、新たな支配・指導者になっていったのです。
こうして村々の中は、持てる者と持たざる者に、明確に目に見える形で分かれていきました。

戦国時代になってくると、農業生産の高い畿内あたりではこの「加地子」が本年貢の2〜10倍にまでなったそうですから、大変な負担であり、権利です。
ここまでくるとほとんど武士化していた地元有力者連中は、本年貢を荘園領主に納めることよりも、この「加地子」を売買や高利のかたにして、自分のところに集めることに熱中し始めます。
要するに年貢を納める荘園の管理者が、生産者たる百姓との間に割って入り、全面的に横取りを始めたようなものですから、荘園領主としては打つ手がありません。
これに守護大名や戦国大名が、武力で荘園や国々を侵食していきますと、もうダメです。
かくして荘園と言うものは、戦国時代にはほとんど有名無実と化してしまったというわけです。

たまらないのは生産者の百姓で、この「加地子」や「下地」をもっと細かく分けていき、ついには自分たちの耕作権さえも「加地子」に組み込んでいきます。
このような耕作する権利を「作職」といい、これらも売買の対象になり、土地同様に「年季売り」が主体となりました。
必要は発明の母と言いますが、これは悲しい発明の母です。

ここまで権利が細かく分かれてくると、土地売買の対象も複雑化していきます。
土地も耕作権も「加地子」も全て含まれる場合、土地と耕作権の場合、土地だけの場合、または耕作権と「加地子・下地」の場合といった具合です。
ただしこの「加地子・下地」は、それぞれが細かいいくつもの権利に分かれていましたし、それ以前にまったく別の人間に売り渡していた場合もありましたから、もっと複雑化していきます。

こういう複雑な権利関係を、売買の禁止も含めて、一気に一元化していったのが、太閤検地でした。
複雑な中世を象徴するような、土地に関する権利関係は、こうして一度は消えていきます。
ただ、近世でも時代が下がると、やはり土地の売買が復活していきますが、中世のように複雑な権利関係になることはありませんでした。

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