人物列伝
「宇都宮広綱」

宇都宮広綱イメージ
↑宇都宮広綱イメージ像(畠山義綱画)

人物名 宇都宮広綱(うつのみやひろつな)
生没年 1543〜1580
所属 宇都宮家
主な役職 宇都宮家当主
参考文献 『戦国大名系譜人名事典』東国編
人物の歴史
 幼名・加賀寿丸。宇都宮尚綱の嫡子。母は結城政朝の娘。父尚綱が37歳という若さで戦死したため、6歳という若さで宇都宮家の家督を継いだ。その頃の宇都宮家は国内外敵だらけでまさに内憂外患というにふさわしい状態であった。若い広綱の後見役となったのは芳賀高定で広綱の味方となったが、その他国内には那須高資、芳賀高照、壬生綱雄などと敵対し、さらにそれを北条氏康があとを引いていたため深刻な問題となっていった。しかし、広綱・高定は高資・高照を殺害し、家中を一応統一した。
 だが、国外の情勢はは北条と上杉との絡みもあり、宇都宮単独で自立するのは難しい状態となっていった。そこで、広綱は国内の反乱分子・皆川氏を屈服させ、下野完全統一をはたすため、佐竹義昭・義重に接近していき、次第に反北条の姿勢を強めることとなった。その後、北条方についた小田氏、皆川氏、壬生氏を攻略、攻撃しいづれも善戦している。しかし、広綱は生来病弱であったようで、1576年〜1580年頃まで病に伏していたようだ。『戦国大名系譜人名事典』によると「この間に発された広綱の文書には病気につき花押を書かない、という注記が施されている」。1580年8月7日37歳の若さで死去した。
義綱解説
 病弱であったというのは畠山義綱と似ているところがありますね。しかし、義綱は医道を志し、50代半ばまで生きたのに対して彼は37歳という若さで死去してしまった。まさに学問は身を助くですね。広綱は孤軍奮闘して頑張っていただけに、その死去は宇都宮家にとって痛手であったでしょう。。

☆信長の野望での宇都宮広綱能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望・野心。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技・策戦
全国版 64 31 59 77 75
武将風雲禄 40 30 70 49 48
覇王伝 53 40 48 72 36
天翔記 124 108 110 77 60
将星録 63 48 65
烈風伝 61 24 64 72
嵐世紀 53 57 52 62 足軽・騎馬・槍 改修・外交・説得
蒼天録 60 27 45 62 足軽 登用・離反・迎撃
天下創世 59 27 37 45 なし
革新 66 59 31 66 先駆け
天道 66 50 40 69 鎮静
創造 65 54 45 66 激励

武将風雲録では全国の大名中最低の評価であった広綱だが、その後はやや持ち直している。特に烈風伝では兵科適性も上昇している。その反面、戦闘の評価が著しく低下した。嵐世紀以降はゲーム全体で武将の能力値が下落している中で、広綱の能力はほぼ従来の能力値を堅持した。さらに革新に至っては、政治力60台、統率能力がほぼ倍増とパワーアップ。創造では全国の地方武将が能力値デフレで大幅な下落があるなか、ほぼ現状維持。これは昨今広綱の評価が高まっているからであろうか。

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