人物列伝
「上杉治憲」

人物名 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
生没年 1751〜1822
役職 米沢藩藩主
参考文献 童門冬ニ『上杉鷹山の経営学』PHP文庫,1990年
(共著)『三百』藩主人名事典』第一巻.新人物往来社.1986年
人物の歴史
 幼名松三郎。のち、直松。直丸勝輿。入道して鷹山。日向高鍋藩(3万石)藩主・秋月佐渡守種美の次男として生まれた。小藩の出身であったが、1760(宝暦10)年に米沢藩8代藩主・上杉重定と養子となった。そして、同年には江戸城の上杉藩邸(桜田邸)に移り住んだ。1763(宝暦13)年には、儒学者(朱子学)の細井平洲に学ぶ。1766(明和3)年に元服し、時の将軍・徳川家治より一字拝領し「治憲」となった。
 翌1767(明和4)年に養父・重定より家督を譲渡され、治憲は17歳で米沢藩9代藩主となった。しかし、治憲が藩主になった時の米沢藩は、非常に貧しく借金も膨大であり、また藩の収入の約9割が武士への俸禄というとんでもない財政状況だった。前藩主の時代には、借金苦に米沢藩は版籍奉還(藩を幕府に返還)を申し出たほどであった(これは尾張藩のとりなしによってご破算になった)。この状況は、藩祖である上杉景勝の会津120万石の頃から、現在の15万石に減俸されても、家臣5000人を一人も削減しなかったことが、財政を圧迫していた要因の一つであると言われる。
 治憲はまず、1771(明和8)年に藩の人材育成のために自らが幼少の頃にならった儒学者・細井平洲を米沢に招請し、藩校「興譲館」を作った。また、竹俣当綱、木村高弘、莅戸善政・佐藤文四郎たちを側近に用いて積極的な藩政改革に着手した。1772(安永元)年には藩士が自ら鍬を取り開墾すると、籍田の礼(開墾する地が豊作であるように祈る儀式)など、藩の組織の意識改革も徐々に進んだ。しかし、1773(安永2)年に、千坂高敦、色部照長、須田満主、長尾景明、清野祐秀、芋川延親、平林正在の藩の重臣らが、治憲の改革の不備と、側近竹俣らの免職を迫る。これに対して治憲は、千坂、芋川を切腹、その他の減俸などの厳罰を実施した(七家騒動)。
 新田開発、武士の二・三男の帰農奨励や、楮・漆・鯉の生産などの殖産興業も進め、さらに自らを先頭に武士の倹約などの藩政改革を協力に進めた。その結果、1784(天明4)年には領国内で凶作に備えができるほどの余裕が生まれた。そして、治憲が藩主を隠居した1785(天明5)年の米沢藩は、貯金すら蓄えるほどの財政状況になった。借金の返済と、藩の武士の意識改革、そして農民に実利的な殖産興業などの実施を行い、武士のリストラなしで行政改革を成し遂げた。治憲が35歳になる1785(天明5)年に家督を前藩主・重定の子・治広に譲った。その際、新藩主・治広に藩主の心得となる三ヶ条を伝えた。これは以後の家督譲渡の際も行われ「伝国の辞」と呼ばれるようになった。
 10代当主・治広の時代の寛政年間に再び莅戸善政が藩主側近として登用され、米沢藩の改革が軌道に乗り藩財政も好転していくことになる。
義綱解説
 上杉治憲はアメリカの故ケネディー大統領が最も尊敬する日本人として挙げた人物と言われる。また、NHKでは治憲役を筒井道隆にキャストし、2時間ドラマをやるなど徐々に脚光を浴びてきている(筒井道隆ははまり役だったなあ)。まさに不況化日本のお手本となる人材である。現在の企業は、利益を得るために積極的なリストラを行うが、リストラが進めば国内の消費は冷え込み結局は自らを苦しめることにつながる。藩の武士の意識改革と、積極的な藩の無駄の追放。これをぜひ現在の日本政府は見習って欲しいものである。

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