人物列伝
「畠山(二本松)義綱」

人物名 畠山 義綱(はたけやま よしつな)
生没年 1574〜1589
所属 二本松畠山家
主な役職 二本松畠山家16代当主
特徴 偉大なる能登畠山家9代当主畠山義綱と名前が全く同じ(笑)
参考文献 『戦国大名系譜人名事典』東国編
人物の歴史
 幼名・国王丸。七郎。畠山義継の嫡子。二本松(奥州)畠山氏は足利(畠山)義純の嫡流で、代々奥州探題などを務める家柄であった。しかし、戦国の動乱で二本松畠山家も衰退し始め、義綱の父・義継の時代には伊達・蘆名など強大な勢力に挟まれ非常に微妙な立場となっていった。1585年、伊達政宗に追われた大内定綱が二本松に逃げ込むと、政宗は畠山征伐の兵を挙げた。義継は勝ち目なしと判断して降伏の立場を採っていたが、定綱が蘆名に逃げたことでようやく許された。しかし、降伏条件として畠山家に安堵された土地は二本松のわずかな地域のみで、畠山家は事実上滅亡へのレールを敷かれた。そこで、義継は1585年10月8日。伊達輝宗の館に招待された時、形成逆転をかけ輝宗を拉致した。これが有名な輝宗拉致事件である。しかし、追う伊達軍にすぐ追い付けられ、銃撃され、輝宗と差し違えて死んだ。この説にも諸説があり、一説には輝宗が義継の毒殺を目論んだのを察知したので、輝宗を拉致したとも言われている。
 その二本松畠山家の跡を継いだのが12才の国王丸。二本松畠山16代目当主(一代目は足利(畠山)義純)もう一人の畠山義綱であった。政宗は父の仇と二本松に兵を向けた。この時、二本松軍は反伊達勢力の援助もあって篭城作戦は成功し、伊達軍を追い返した。しかし、翌年、伊達家の勢いがさらに強大化し畠山家中も分裂状態となってきた。そこで相馬氏の斡旋により二本松城は無血開城し、義綱は蘆名の下に逃走。ここに二本松畠山家は滅亡した。その後、義綱は蘆名義広によって常陸で殺されたという。享年16歳であった。   
義綱解説
 この偉大な能登畠山家9代当主畠山義綱(笑)と名前が同じとは、ひょっとしたら、この私を尊敬して付けた名前なのでは?(爆)二本松畠山家は能登畠山家とも仲が良かったようだし、あながち本当かもしれないですよぉ。ちなみに遊佐きむち守殿の指摘で気付いたのですが、二本松畠山家の「義継(よしつぐ)−義綱(よしつな)」と続く父子は、能登畠山家の「義続(よしつぐ)−義綱(よしつな)」父子と読みが一緒ですね。なにか所以があったのでしょうか?

☆信長の野望での二本松義綱能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 兵種 特技・策戦
蒼天録 25 23 27 26 足軽 哀願・誘導

蒼天録で初登場。二本松畠山氏最後の当主である。これでゲームでも二本松畠山家の名目が保てますね。蒼天録では二本松畠山氏一族がかなり登場していて、「家泰、村国、義国、義継、義綱」と総勢5名も登場している。蒼天録は二本松ファン待望のゲームであったが、天下創世では全ての二本松畠山氏の人物がカットされた(激怒)。

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