このコンテンツは、戦国時代のみならず、鎌倉・南北朝時代にも詳しい足利左馬頭義輝殿に投稿頂いたコンテンツです。
鎌倉時代皇族将軍として祭り上げられた宗尊親王の生涯を描く、足利左馬頭義輝殿の力作をどうぞご覧下さい!
なお、このコンテンツは足利左馬頭義輝殿に著作権があるため転載は禁止です。

人物列伝
「宗尊 親王」

人物名 宗尊 (むねたか)
生没年 1242〜1274
所属 鎌倉幕府第6代将軍
人物の歴史
一.緒 論
 宗尊親王〔一二四二〜七四〕は、四条天皇〔一二三一〜四二〕が没した仁治三年〔一二四二〕、後嵯峨天皇〔一二二〇〜七二〕の第一皇子として誕生した。幼名は中書王〔ちゅうしょおう〕、母は蔵人木工頭・平棟基の女、棟子〔?〜一三〇八〕である。後嵯峨天皇即位後初の男子であったにも関わらず母・棟子の出自が低かった理由で春宮となれなかった。ところが寛元二年〔一二四四〕正月、宗尊は皇位継承権を持たないまま親王宣下を受ける。
そのため元服した建長四年〔一二五二〕、鎌倉方の要請で征夷大将軍に迎えられることとなり、宗尊の運命は大きく変った。鎌倉幕府初の皇族将軍となり、歌人として幕府歌壇に多大な影響を与えたものの結局は傀儡的に利用され、成人に及んで鎌倉から追放、帰洛後の文永十一年〔一二七四〕七月三十日、三十三歳の生涯を閉じた。
 このような数奇な経過をたどりながら、宗尊親王の足跡は傀儡将軍の側面のみ強調され、鎌倉幕府政治史上必ずしも注目を集めてきたとは言い難い。しかしながらその生涯は、政治的・文化的に鎌倉中・後期の朝廷と幕府との関係に深く作用し、また残された多くの詠歌や歌集はその後の日本文学史に多くの功績を残している。これら親王が深く関わった和歌を中心に、当時の政治・文化について宗尊親王の事績をみていこうと思う。
宗尊親王 一二四二〜一二七四〔仁治三〜文永十一〕
 鎌倉幕府第六代将軍。中務卿。仁治三年〔一二四二〕十一月二十二日生まれる。父は後嵯峨天皇。母は木工権頭平頭平棟基女の棟子。宝治元年〔一二四七〕正月、後深草天皇猶子となる。建長四年〔一二五二〕三月、東下して征夷大将軍。文永三年〔一二六六〕七月、謀反の疑いがあるとして将軍職を追われ帰洛。同九年二月出家。法名行証、または覚恵。同十一年八月一日薨ず。歌人としても知られ、著書に『柳葉和歌集』『瓊玉和歌集』などがある。

  『鎌倉・室町人名辞典』〔新人物往来社〕

二.宗尊親王とその猶子関係
 宗尊親王生誕当時、皇室内では猶子関係が非常に重層的に展開していた。特に宗尊については、幼少期から複数の女院と猶子関係を結んでいることが明らかとなっている。誕生後のある時期、宗尊は後鳥羽院〔一一八〇〜三九〕の寵愛が深かった土御門天皇生母・承明門院在子〔一一七一〜一二五七〕の土御門殿で、やはり土御門皇女の正親町院覚子〔一二一三〜八五〕とともに猶子として養育されていた。従って宗尊は他の皇女とともに土御門皇統の内部で庇護され、成長していたことになる。後に宗尊の生母である平棟子も大嘗会女叙位で三位に叙された際、土御門殿に参上している。その目的は、承明門院への拝賀であったと考えられることから、母子ともに承明門院との結びつきが強かったことが伺える。寛元二年〔一二四四〕正月、宗尊は親王宣下を受け、続く宝治元年〔一二四七〕年正月、後高倉院〔一一七九〜一二二三〕の皇女・式乾門院利子〔一一九七〜一二五一〕の猶子となって持明院殿に入御の儀を受けた。さらに、宝治二年には室町院疇子〔一二二八〜一三〇〇〕と『父子御約契』を交わし室町院御所に移御の儀を行う。
一連の猶子関係が次々に結ばれたのは、後嵯峨の権力が朝廷で本格的に機能し始めた時期にあたる。寛元四年〔一二四六〕正月、後深草天皇〔一二四三〜一三〇四〕に譲位し自らは上皇として院政を開始して以降、後嵯峨は治天として複雑な皇室領の伝領に関する発言権を強めていた。また同年七月、征夷大将軍であった九条頼経〔一二一八〜五六〕が鎌倉から送還され、その父・関白九条道家〔一一九三〜一二五二〕の権勢が衰えたことは後嵯峨の権限が一層強まることにもつながった。後嵯峨はこの機を逃さず朝廷の諸政務に介入していったのである。従って宗尊の猶子関係においても、後嵯峨の強力な意志によって式乾門院や室町院の猶子となったと考えられよう。後嵯峨は政治的な絡みで絶えず分裂してゆく諸皇統の乱立によって、経済基盤である荘園の支配体制が動揺することにより自己の正統的権威が失われてゆくのを何よりも恐れていたのである。 
  宗尊は後嵯峨即位後初の皇子ではあるものの、母・棟子の父・平棟基は五位蔵人でありその出自は決して高くない。しかし棟子の出自が低いにも関わらず宗尊は後嵯峨より「仙洞御鍾愛之一宮」と破格の扱いを受けていることが、『吾妻鏡』に記されており、また『平戸記』によると、生母・棟子も「今上寵愛逐日々新」とされている。このことから、後嵯峨が皇嗣を含む他の皇子をさしおいて、宗尊を基幹とした猶子関係を構築させていたことが伺い知ることができよう。
これほどまでに後嵯峨が宗尊を重要視しその猶子関係にこだわった背景には、鎌倉中期の不安定な朝政に起因していることがあげられる。後嵯峨が即位した当時、九条道家等は、順徳天皇〔一一九七〜一二四二〕の皇子である忠成王〔一二二一〜七九〕の即位を図り、順徳皇統に連なる皇統の猶子関係構築を盛んに画策していた。周知の通り順徳天皇は承久の乱の戦後処理に連座し後鳥羽院、土御門院〔一一九五〜一二三一〕と共に流刑に処せられた人物であり、これら順徳系の皇子たちの存在は幕府にとっても、また後嵯峨にとっても潜在的な脅威を与え続けていたと考えられる。宗尊を基幹とした猶子関係は、まさに皇室全体における後嵯峨皇統の課題の解決策としてとらえることができる。

三.宗尊親王の鎌倉下向
 建長四年(一二五二)正月八日、後嵯峨上皇の仙洞御所で元服し三品に叙せられた宗尊親王は三月十九日、初の皇族将軍として鎌倉に下向した。将軍九条頼嗣〔一二三九〜五六〕を廃した執権・北条時頼〔一二二七〜六七〕や重時〔一一九八〜六一〕等にとって、皇族将軍をいただくことは幕府の宿願であった。かつて後鳥羽院が皇子下向に対し強硬な反対姿勢を貫き通した時と異なり、今回後嵯峨は幕府の意向を承諾し鎌倉下向は非常に速やかであった。ニ代にわたって将軍を送りこんでいた九条家はこの時点から衰亡の途をたどる。これに代わって台頭したのが、既に親北条氏派としてあった西園寺家であった。後深草・亀山両天皇の外祖父であった西園寺実氏〔一一九四〜一二六九〕はこの後太政大臣に就任、また失脚した九条道家に代り関東申次となっている。
  四月一日、宗尊親王一行は鎌倉に到着し、時頼邸に入った。入れ代わるように四月三日、十四歳の前将軍頼嗣が帰洛、四月五日には宗尊を征夷大将軍に任ずる一日付の宣旨が届けられた。ここに皇族将軍・宗尊親王が誕生したのである。時に宗尊は満十歳。このことは『増鏡』に「かかる例はいまだ侍らぬ」とあるように、いささかの驚きを持って迎えられていたようである。四月十四日には鶴岡八幡宮参詣と政所始が執り行われ、将軍としての公式の生活が始まった。『増鏡』は、

「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官かうぶりなどは、障りあるまじ」
「まことに大やけになり給はずば、これよりまさる事、なに事かあらん」

と記し、このときの宗尊親王一行の状況を巧みに表現している。ちなみにこのとき宗尊と共に下向した近習の藤原重房〔生没年不詳〕は後の上杉氏の祖となり、以後足利家とのつながりを強めていった。重房の女は足利頼氏〔一二四〇〜一二六二〕室に、孫娘の清子は足利貞氏〔一二七三〜一三三一〕の室となり足利尊氏〔一三〇五〜一三五八〕・直義〔一三〇六〜一三五二〕をもうけている。
しかし、宗尊が後嵯峨院の大きな期待を背負っていたとすれば、なぜ後嵯峨はそのような皇子の鎌倉下向を簡単に承諾したのであろうか。
白河天皇〔一〇五三〜一一二九〕以来、皇室の原則として皇位継承候補者とその同母弟は親王にされるが、それ以外の皇子はすべて幼時に出家させる、ということがいわゆる不文律として確立されつつあった。そのためこの原則は後嵯峨をはじめとする当時の皇族についても当てはめることができる。それにも関わらず、すでに久仁〔後の後深草〕誕生後の寛元二年に後嵯峨があえて宗尊に親王宣下を行ったところからも、何としても後高倉皇統を後嵯峨皇統へ取り込もうとする役割を宗尊に期待する後嵯峨の意図が伺える。
しかし前述の通り、宗尊生母の棟子は決して高い出自とは言えなかった。従って西園寺家出身の大宮院「★子」(★女へんに吉)〔一二二五〜九二〕に、久仁・恒仁〔後の亀山〕が次々に誕生した以上、宗尊が皇位につくことは絶望的であった。いかに親王とはいえ、皇位継承の可能性が客観的に完全に失われた状態の皇子を、在俗のままで置いておくことには自ずから限界があったのである。
このような状況の中、折しも幕府の政治過程が親王下向要請に向けて本格的に動き出したことは、後嵯峨院にとってまたとない好機であったといえよう。宗尊が出家或いは臣籍降下させられることなく、親王のまま東国の主である鎌倉将軍として下向することは、単に幕府側の要請であったと思われるだけでなく、後嵯峨皇統にとっても好都合であったに違いない。
  幕府にとっても皇族将軍の存在はその権威付けに大いに役立ち、公武関係の円滑化にも有効であった。そのため幕府は宗尊の待遇には神経を使い、まもなく御所の新造に着手、病にかかれば治療祈願など、誠意を示している。御所が完成し、宗尊はそれまで御座所としていた時頼邸より移り住んだのは建長四年十一月十一日のことであった。

四.皇族将軍
 宗尊親王が鎌倉に下向した建長四年当時、鎌倉は執権・北条時頼治世の元、経済的にも豊かになりつつあり、京に劣らぬ活況を呈していた時期であった。世情の安定化は様々な独自文化を育む。鎌倉大仏で有名な高徳院阿弥陀如来坐像の鋳造が開始されたのはまさにこの建長四年の出来事である。金沢実時〔一二二四〜七六〕が設立した金沢文庫は今日に至ってもなお鎌倉期の著名な史書を残し、歴史上非常に重要な存在である。また時頼は宋より蘭渓道隆〔一二一三〜七八〕を招聘、鎌倉に臨済禅の弘布を懇願し、同五年〔一二五三〕十一月にはその蘭渓道隆を開山とした我が国最初の臨済宗巨福山建長寺の落慶供養が執り行われた。他方、日蓮〔一二二二〜八二〕はその先鋭的な辻説法でこの年の四月ごろから市内を盛んに賑わせていた。
このような鎌倉の賑わいをよそに宗尊の将軍としての日々は過ぎていったが、幕政は執権・連署・評定衆等によって担われているため、将軍の意志が幕政に反映されることはなかった。宗尊の将軍としての公的な行動は幕府の総司祭的なものが中心であり、従って将軍としての意志は、鶴岡八幡宮や二所参詣、執権・連署邸等への出行する際の供奉人統轄面で反映されている。一方で鎌倉の主としての意識は必要であり、御所では『帝範』や『臣軌』の読み合わせが行われ、王者風の治者意識が強化されていった。その一端は『瓊玉和歌集』に見出すことができる。
民やすく国おさまれと身ひとつに 祈る心に神そしすらん(巻九)

世をおさめ民をたすくる心こそ やかてみのりのまこと成なれ(巻九)

有て身のかひやなからん国の為 民のためにとおもひなさすは(巻十)

心をはむなしき物となしはてて 世の為にのみ身をやまかせん(巻十)

執権時頼も宗尊に対しては何かと気を遣ったようで、建長六年〔一二五四〕閏五月一日、御所を訪れ宗尊一行と酒宴を催した。また康元元年〔一二五六〕七月には時頼自身の開基・山ノ内の最明寺に宗尊を迎え礼仏と音楽・和歌の会を開催、その日宗尊はそこに一夜逗留している。時頼としては宗尊を慰撫すると同時に、東国武士の在り様を認識させる狙いがあったものと思われる。この直後の八月には前将軍・九条頼経が、九月には頼嗣がそれぞれ京で死去した。この知らせは宗尊親王にも届けられているはずであり、既に十四歳となり客観的な判断力もつき始めていた宗尊は、彼らを追放した時頼や鎌倉武士たちに一種の畏怖感を抱いたことであろう。時頼はこの年の十一月、蘭渓道隆を戒師とし最明寺において出家。法名を覚了道崇と号し北条長時〔一二三〇〜六四〕に執権職を譲った。
鎌倉の生活にも馴染んできた正嘉元年〔一二五七〕、宗尊親王は大慈寺供養を始め五泊六日に及ぶ伊豆の二所権現・三島神社参拝、正嘉二年〔一二五八年〕の勝長寿院供養など、様々な催しに伺候し、三月、翌正嘉三年〔一二五九〕正月の上洛の決定は、宗尊を大いに喜ばせるものであった。しかしこの上洛は、この年八月の大暴風による諸国大災を理由に延期されてしまう。この上洛延期は宗尊にとって最初の痛恨事で、その失望が大きかったことは想像に難くない。
そのような中、文応元年〔一二六〇〕二月五日、岡屋関白・近衛兼経〔一二一〇〜五九〕の女・宰子〔一二四一〜?〕が、時頼の猶子となって鎌倉に下向して来た。ついで三月二十一日、宰子との婚儀が執り行われ、二十七日に露見式が行われた。時に宗尊十九歳、宰子は二十歳であった。

五.和歌への傾倒
 鎌倉に下向し将軍となって後、宗尊親王は御家人の芸能奉仕を通じて将軍としての教養の向上をはかっていった。鎌倉下向後間もない建長六年〔一二五四〕十二月には、御所における学問研鑽の一環として宗尊は源氏学者として著名な河内守源親行〔生没年不詳〕から『源氏物語』の講義を受けている。
 特に文応元年〔一二六〇〕正月二十日、自ら御所に定置した昼番の衆は、歌道・蹴鞠・管絃・右筆・弓馬・郢曲以下、すべて一芸に秀でた者を順次祗候させる制度であり、このとき宗尊はその人名も指定している。幅広い学問・遊芸を身につけようとしたことが伺われるが、中でも宗尊が特に関心を抱いたのは和歌であった。
 宗尊は歌人としての稟質が非常に高く、将軍在位期間を含めおびただしい数の秀歌を残した。その事績は三代将軍源実朝〔一一九二〜一二一九〕に続き幕府歌壇に第二の隆盛期をもたらし、その意味で宗尊が開いた鎌倉歌壇は中世文学史上の一つの到達点であったとも言える。ここではその和歌を中心に、鎌倉における宗尊の事績を辿ってみようと思う。   
 文応から弘長年間は幕府歌壇が非常に活気を呈した時期で、将軍に近侍する関東祗候の廷臣をはじめ、北条氏や他の御家人など当時の鎌倉に歌人は多かった。北条一門では政村〔一二〇五〜七三〕や重時・長時父子が代表で、京歌人に藤原顕氏〔一二〇七〜七四〕、飛鳥井教定〔一二一〇〜六六〕あるいは真観〔葉室光俊.一二〇三〜七六〕、仙覚〔一二〇三〜?〕等があげられる。特に真観は歌の師として宗尊自身が鎌倉へ招いた人物である。このような背景もあって、宗尊の和歌愛好は急速に進み、弘長元年〔一二六一〕正月二十七日、藤原顕氏・真観・北条長時等々が集って和歌会始が盛大に行われ、三月二十五日には「歌仙結番の制」が設けられた。これは近習の中から和歌に秀でた者を選りすぐり、順次当番を定めて一日五首の詠歌を提出させるという制度である。その後宗尊は五月に関東近古の秀歌撰出を評定衆・後藤基政〔一二一四〜六七〕に命じ『東撰和歌六帖』を編纂、九月には『人々に詠ませ侍りし百首歌』をまとめ、共に『柳葉和歌集巻一』を編纂している。このように宗尊を中心とする和歌愛好は幕府制度の重要な側面を形成するまでに発展していった。
 弘長二年〔一二六二〕九月には、三十六人歌合が開催された。これは一人十首を提出させたことから、別名『三十六人大歌合』とも呼ばれている。歌人は、宗尊以下、側近の東胤行〔一一九四〜一二七三〕、京方の冷泉為家〔一一九八〜一二七五〕、藤原為氏〔一二二二〜八六〕、藤原信実〔生没年不詳〕、真観、後藤基政の他に鎌倉方から北条政村、北条長時、鶴岡八幡宮別当・隆弁〔一二〇八〜八三〕等が一堂に会した。その後の十一月及び十二月にも宗尊は歌会において百首を詠み、この弘長二年に詠じた膨大な作品は、『柳葉和歌集巻二』を構成している。
 明くる弘長三年〔一二六三〕二月二日、御所において和歌の会が、続く八日には政村邸で和歌の会が開催され、一日千首の続ぎ歌が詠まれた。次いで六月二十四日、宗尊は一人未の刻〔午後二時頃〕から詠歌に着手し翌二十五日の巳の刻〔午前十時頃〕、百首あまりを創作、これを掃部助範元に清書を命じている。これらは『一夜百首』とも称され、『柳葉和歌集巻三』の巻首に掲載されている。『吾妻鏡』によると、宗尊は三十日にこれらの百首を真観に批評させ、真観は「去年の一日百首の御歌に勝る」と評したのであるが、宗尊自身はこれらの詠歌に不満であったらしい。宗尊の詠歌に関する批判や鑑賞力が進歩している様が伺い知れる出来事である。
七月一日、宗尊はここ半年間の作品中三百六十首を抄出・清書の上、批評を請うため京の冷泉為家のもとに送った。為家はこれに対し五百首余を批評し、宗尊の元へは三ケ月後の十月二十八日届けられた。『吾妻鏡』によると、為家は六義の奥旨を記した一巻とともに「猶ほ御沈思を凝らさるべき」とした条々が添えられていたと記している。
なお、宗尊の歌会に度々出席しその批評を行っているこの冷泉為家は、藤原定家〔一一六二〜一二四一〕を父に持ち現代に続く冷泉家の祖であり、その子為相〔一二六三〜一三二八〕は鎌倉において関東歌壇の指導者とも仰がれていた人物である。為相は鎌倉の藤ヶ谷に居を構えその地で没し、墓は今でも鎌倉浄光明寺の裏山にある。
 続く弘長三年七月二十九日、宗尊は建長五年〔一二五三〕から正嘉元年〔一二五七〕に至る五年間の詠歌で『初心愚草』を編纂した。これは宗尊十二歳から十六歳までの作だけを撰修したものであったため、「初心であり愚草である」との書名で記録されている。八月には『三代集詞にて詠み侍りし百首歌』が編纂された。『柳葉和歌集巻三』は、先の『一夜百首』と、この『三代集詞にて詠み侍りし百首歌』とから構成されている。この『柳葉和歌集』は、その後、文永元年〔一二六四〕六月十七日の『身づからの歌百首、つがひに合はせ侍るとて』と題された百十余首の詠歌と十月にも詠まれた百首歌とで『柳葉和歌集巻四』を、続く文永二年〔一二六五〕閏四月に詠まれた三百六十首で『柳葉和歌集巻五』を構成し、順次発展を続けていった。またこの年十二月九日には、真観が撰了し、十巻からなる『瓊玉和歌集』が編纂を終えている。

六.和歌耽溺の本質
 宗尊親王の和歌への傾倒は愛好の域を超えて耽溺と言ってもよいものであった。征夷大将軍としての任務は和歌を中心として行われていたようなもので、その間、供奉人統轄・詠歌以外に宗尊が本気で携わったものは何であったのかおよそ見聞することができない。
 宗尊が和歌の創作に耽溺したのは、自らが愛好する世界であるのは無論、傀儡将軍を自覚するほど深まっていった孤独感を表現するための一つの手段だったのだと思われる。また『吾妻鏡』で見られる限り宗尊は頻繁に病を得ており、比較的病弱であったようである。このことも加わってか、宗尊の詠歌には、自分の置かれている立場に対する悲傷の念が色濃く反映されている作品が多い。

よのなかにとにもかくにもくるしきはたた身を思ふ心なりけり 『瓊玉和歌集』

山深くすまんとまてはなけれとも事しけきよをよそに聞はや 『瓊玉和歌集』

見ずしらぬさきの世までもつらき哉と物思う身と生れけむ 『柳葉和歌集』

なげきわびもの思う比は郭公わがためにのみなくかとぞきく   『柳葉和歌集』

世の中は風にまかせてゆく船のいつくをつゐのとまりともなし 『柳葉和歌集』

宗尊親王の和歌から醸し出される悲傷感は、当時の幕府要人との関係を憂いた痛烈な厭世観や無常観から来るもので、この頃宗尊が抱いていた心境はこれら残された歌からも読みとることができる。このことは自身への強い自己防衛にもつながり、宗尊が自分なりに導き出した保身の術のひとつであったかもしれない。幕府首脳部に対し異心がないことを詠歌で示したのであろう。
弘長三年〔一二六三〕八月九日、再度の上洛日が来る十月三日と決定された。これは正嘉二年〔一二五八年〕に決定されたものの暴風雨により延期されて以来五年ぶりの上洛決定であり、途上の供奉者も決定した。宗尊の喜びはひとしおであったと思われる。しかし、同月十四日から起きた暴風雨のため、鎌倉は宗尊の御所も破損するほどの甚大な被害を被り、上洛はまたしても中止された。この時の心境を宗尊は歌に現している。

  今ぞしる浦こぐ舟の道ならぬ旅さへ風の心なりとは

  今更になれし都ぞ忍ばるるまたいつとだに頼みなければ

遠い鎌倉の地にあって、京への思慕は強かった事が伺われる。
そのような中の文永元年〔一二六四〕四月、嗣子惟康王〔一二六四〜一三二六〕が誕生した。慶賀は翌文永二年〔一二六五〕も続き、九月十七日、朝廷より一品中務卿に叙せられるとともに、二十一日には?子〔一二六五〜?〕が誕生、更に十二月二十六日には、『続古今和歌集』に詠歌がとられるという喜びが重なった。『続古今和歌集』は後嵯峨上皇の院宣により、冷泉為家、九条基家〔一二〇三〜八〇〕、九条家良〔一一九二〜一二六四〕、真観等によって撰了された勅撰和歌集で、他の歌人たちを抑え宗尊の作品が最も多い六十七首を数え、当時の歌壇での宗尊の立場が伺える。
弘長三年十一月二十二日、北条時頼が三十七歳で死去した。これに先立つ二年前の弘長元年〔一二六一〕十一月三日には北条重時が世を去っており、更に文永元年〔一二六四〕八月には執権北条長時が死去、政村が執権となり、北条時宗〔一二五一〜八四〕が連署となった。宗尊親王の下向を実現させた人物が相次いで姿を消し、幕府は新たな体制に入ったのである。

七.将軍追放とその真相
 文永三年〔一二六六〕正月、鎌倉では新年行事が例年通り執り行われたが、その月の十七日、恒例の鶴岡参詣が宗尊の病で三十日に延期された。病は程なく平癒し、三月三十日、御所において当座の和歌会が開催されたものの、四月に入って宗尊は再び病床についた。このとき宗尊の祈祷護身を命じられたのが松殿僧正・良基〔?〜一二六六〕である。良基は前摂政・藤原基房〔一一四四〜一二三〇〕の孫で、曹洞禅の道元〔一二〇〇〜五三〕とは従兄弟の関係にあり、また兄・師家の側室は北条時政〔一一三八〜一二一五〕の娘である。このような姻戚関係もあり、良基は時頼の病気平癒、将軍御息所の出産祈祷を行うなど、北条氏の信任も厚かったのであるが、その将軍御息所・宰子との密通事件が露顕した。この事件を発端とし、鎌倉と京の間では六月初頭より不穏な空気が漂い始め、六月二十日、時宗邸に、執権・政村、連署・時宗、実時、安達泰盛〔一二三一〜八五〕の幕府要人四人だけの会合が持たれた。世に言う『深秘の御沙汰』である。この日、良基はにわかに御所から退出、逐電した。
 この事件を受けて、六月二十三日、宰子と姫宮・■子(■は「手へんに倫のにんべんをとったもの」)は保護の名目で御所より慌ただしく山ノ内殿に移され、若宮の惟康王も時宗邸に移されている。折も折、翌二十四日の夜半に大地震があり、鎌倉は大混乱となった。七月に入ると、近隣の御家人たちが続々と鎌倉に参集し始める。彼等は皆軍装を整え時宗邸の門外に集結し、住民たちも戦を恐れ、家屋を破壊して財産を運び隠すなど、鎌倉市中は極めて騒然とした状況となった〔『吾妻鏡』〕。
 七月三日、武藤景頼〔一二〇四〜六七〕、二階堂行忠〔一二二一〜九〇〕等が時宗の使者として将軍御所との間を往還し、宗尊は執権政村の邸に入った。御所には若干名が残り、近臣は皆宗尊と共に御所を後にしている。
 翌七月四日、突如として名越教時〔一二三五〜七二〕が軍兵数十騎を率いて薬師堂谷の自邸から塔辻の宿所に出動した。教時は反得宗家にある名越流北条氏の一人で、寛元四年〔一二四六〕、九条頼経を擁して起こした宮騒動の関係者でもあり、この動きは宗尊の奪還と得宗家との対決と見て間違いない。だがこのとき時宗は使者を派遣し教時の動きを牽制している。教時は軍兵を引いたが、「陳謝するに所なし」と記録されている。その夜、宗尊は女房の輿で佐介ケ谷の北条時盛〔一一九七〜一二七七〕邸に移された。赤橋の前を通過する際、宗尊は輿を若宮の方に向けさせ、別れの祈念を行ったという。嗣子・惟康王や■子(■は「手へんに倫のにんべんをとったもの」)、宰子と面会することもかなわず、七月八日、宗尊は帰洛の途についた。鎌倉を離れるに際し宗尊は詠じた。

  帰り来てまた見んことも固瀬川濁れる水のすまぬ世なれば

  めぐり逢ふ秋はたのまず七夕の同じ別れに袖はしぼれど

「七月八日の暁、鎌倉を出づとて」 『中書王御詠 雑の部』

こうした宗尊親王の鎌倉追放劇は、宰子と良基の私通を契機に生じた「将軍家御謀叛」の噂に対し、あまりにも周到な「深秘の御沙汰」を経て引き起こされたものである。『鎌倉北条九代記』には、

「をりふしにつけては和歌の御会に事をよせられ、近習の者どもを召集め、密々に秘計をくはだてて、北条時宗を討ちて将軍家思召すままに天下を領じたまはんとの謀をめぐらしたまふと、世に専ら沙汰あり、かれこれたがひに語りけるほどに風聞かくれなく、時宗に告知するもの多かりければ、北条家これより物事に遠慮あり、疑殆おこりて用心に隙なく」

と、あたかも宗尊の謀反を未然に防ぐため措置であるように記しているが、当の宗尊自身に「謀反」の気はなかったと言ってよい。むしろ幕府側、特に時宗と実時に過剰なまでの防衛意識が働いていたものと考えられる。
 とはいえ、宗尊が鎌倉に下向して数年間、生活自体は平穏であった。時頼存命中は宗尊・時宗ともにまだ若く、時頼自身宗尊とは比較的親密であって、政村は歌会の一員である。また宗尊は時宗の烏帽子親でもあり、康元元年〔一二五六〕二月の時宗元服の際は「宗」の偉を与え、小侍所においてもお互い接する機会が多く、幕府とは円滑な関係が続いていたと思われる。しかし宗尊が成長するに及びその自我が醸成されていくと、得宗家を継いだ時宗とは微妙な軋轢が生じていった。すなわち、供奉人統轄に関する人事権を巡る対立である。
 それまでの将軍になく、宗尊は将軍出行時の御家人供奉の事務を直接かつ積極的に押し進めていった。この際宗尊は御家人の供奉怠慢を厳重に取り締まってもいる。これら将軍出行催促や弓始射手の選定などは小侍所に属し、この供奉をめぐる宗尊の専行化は小侍所にあって近侍諸役を統轄していた時宗・実時の激しい反発を招くこととなった。
 一方、宗尊の和歌への傾倒は幕政の中で多く制度化されていた。中世歌壇は多くは公的化されるものであるが、宗尊の場合幕政の公的場面に和歌の制度化がかなりの領域を占めていた。幕府にしてみれば、詠歌を通じて集まる御家人や親近者との間に叙事的連帯を逸脱し始めた宗尊は、当初の権威付けという思惑を超え既に脅威を孕んだ存在であった。宗尊自身に鎌倉の主としての権威が政治的な実質を備えつつあったため、宗尊が進めた皇族将軍らしい儀容の整備という思いは、結果的には将軍と御家人の主従制を建て直し、再編強化につながっていったのである。時頼が推進した得宗中心の体制が根幹であった当時、和歌愛好の集まりは、それを主宰する宗尊の象徴的権威を媒介として反幕府、すなわち反政村・時宗体制に転化するおそれがあり、幕府はこれを未然に防ぐ必要に迫られた。
 このように文永三年という時期は、宗尊本人の意志を超え、幕府内では既に反得宗的・反体制的な様相を呈していたのである。こうして幕府は体制維持という大局的な判断から将軍更迭の挙に出た。将軍の代替には三歳になる惟康王がおり、格別配慮する必要はなかった。政村・時宗等にとって御息所の私通は、「将軍家御謀反」と決定するには絶好の事件だったと言えよう。
 帰洛後、宗尊が詠んだ有名な歌が『増鏡』第七「北野の雪」に残されている。

虎とのみもちゐられしは昔にて 今はねずみのあなうよの中 
「鼠」 『竹風和歌抄』

宗尊の、悲哀を現した歌として著名であるが、「虎と用いられた」との回想の中に決して傀儡としての存在に終始しなかった自負心が読みとることができ、興味深い。

八.帰洛後の宗尊親王
 宗尊親王が京に到着したのは文永三年七月二十日のことである。宗尊はこのとき二十四歳。鎌倉にあって十五年、謀反という無実の罪を着せられ、思慕しつづけてきた都へ帰ってきたのである。宗尊は幕府の監視もあってか、まず六波羅探題北方北条時茂〔一二四一〜七〇〕邸に移された。今回の事件は、宗尊に何の関係もなく全く事実無根の嫌疑であったが、謀反の中心的人物と見なされた事で宗尊に対する周囲の空気は冷たいものだった。『とはずがたり』は、宗尊が「いとあやしげなる張り輿」に乗せられ異様なありさまで帰洛した様子を伝え、父帝である後嵯峨院は幕府を憚かり、義絶した形でしばらくは面会をも拒んでいる。ちなみに『吾妻鏡』は、宗尊が入洛して六波羅の時茂邸に到着した文永三年七月二十日の条で終わっている。
 宗尊が帰洛した四日後の七月二十四日、朝廷より三歳の惟康王に対し征夷大将軍宣下がなされ、鎌倉七代将軍・惟康親王が誕生した。傀儡というにはあまりにも幼い将軍である。宗尊は我が子が似たような運命を辿ることを見通せたのであろう。惟康親王を詠んだ歌が残されている。

うつり行この世なりともあづま人 なさけはかけよおやの為とて
「子」『竹風和歌抄』

果たして惟康親王は、二十三年後の正応二年(一二八九)九月、二十六歳で父と同じように将軍位を更迭され帰洛を余儀なくされた。
幕府の態度も緩和してきた十月九日、宗尊はかつて養育されていた亡き承明門院の土御門万里小路殿に移った。幕府としても、もとより無実の罪を着せた後ろめたさもあったのか、この後朝廷における宗尊の立場の安定に積極的に努めている。十一月六日、幕府は武藤景頼、佐々木氏信〔一二二〇〜九五〕を京へ派遣し所領五ケ所を宗尊に進呈し、また父後嵯峨院、生母である准后棟子の義絶が解かれるよう取りはからっている。また十一月四日には御息所・宰子も帰洛し、十二月十六日、宗尊は帰洛後初めて院の御所に参院した。『増鏡』はこれら一連の出来事を

「院へもつねに御参りなどありて、人々も仕うまつり、御遊びなどもし給ふ」

と記録している。この記述を見る限り宮中において宗尊が逼塞した様子は見られず、少なくとも文永三年末以降、既に復権していたことが見受けられる。
  しかし宗尊自身が受けた心の傷は容易に癒えなかったことは想像に難くない。京に戻り、都びとたちと交流を続けながらも宗尊が光明を見い出してゆくのは、やはり和歌の世界であった。宗尊は帰洛後整理していた『中書王御詠』を編纂した。これは文永四年〔一二六七〕春から同四年八月頃に至る二年余の作品を集め、冷泉為家に批評を請願したもので、『柳葉和歌集』や『瓊玉和歌集』その他よりも、宗尊の人となりを伺い知ることができ秀歌も多い。一方、文永三年から同九年頃までの定数歌と自歌合から構成される『竹風和歌抄』も編纂されており、帰洛後も和歌への愛好が衰えていないことが伺われる。しかし、同時に帰洛後に詠まれた数々の詠歌は無実を訴える悲愴感に溢れたものが多く、その傷痕の深さが偲ばれる。

久かたの天津日かげの半ぞらにかたぶかぬ身といつ思いけん 『竹風和歌抄』

誰か又神のちかひを頼むべきわれ無き名にてしづみ果てなば

あと垂るる四方の社の神々もあやまたぬ身の程は知るらん

さひしさのかきりとそみるわたつうみのとおしまかすむ春の夜の月

身をうきになしはててこそ思ひしれ人のなさけはなき世なりけり

つれなしや限りある世と言ひながらかかる憂き身に残る命は   

かかる身を誰れかあはれといひもせん世に従はぬ人しなければ
以上 『中書王御詠』

文永四年〔一二六七〕、宗尊は新たに堀川具教の孫娘を妻に迎えた。その六年後、女子・瑞子〔一二七二〜一三二九〕をもうける。先の室・宰子との間にもうけた■子(■は「手へんに倫のにんべんをとったもの」)は准三宮宣下・亀山天皇〔一二六〇〜一二七四〕の妃となっていたが、この瑞子はその亀山の庇護下で成長し、正安四年〔一三〇二〕准三宮・女院号宣下を受ける。その後、瑞子は後宇多院〔一二六七〜一三二四〕に寵愛され、その猶子となり永嘉門院を称している。また宗尊の生母・准后棟子は、既に後宇多の「御准祖母」的な立場にあって、このように宗尊の周辺にある女性達は、後の大覚寺統と密接に関わっていくこととなる。
 文永五年〔一二六八〕正月二十四日、後嵯峨院の長寿を祝う舞楽会が盛大に行われた。 当日、院の御所冷泉殿には聖護院覚助法親王〔一二四七〜一三三六〕・梶井門跡最助法親王〔一二五三〜九三〕・月華門院綜子内親王〔一二四七〜六九〕など、後嵯峨院の他の皇子・皇女ともども多くの公卿たちがつめかけ、その中に宗尊も参列し舞楽に興じた。ようやく訪れた平穏な日々に宗尊がどう思いを馳せたのかは知る由もないが、このような催事は失意の宗尊の心を楽しませたであろう。だがこの年は日本にとって動乱の始まりでもあった。
 同年二月七日、幕府は先月高麗国より届けられた蒙古からの国書を朝廷へ奏上。三月五日には時宗が執権となり蒙古来襲に備え西国の御家人たちに防備を固めるように命じ、朝廷では神社寺院での祈祷を下達、全国にかつてない緊張感が走った。文永七年〔一二七〇〕、朝廷は蒙古への返牒を作成したが、幕府はあえてこれを送らず、文永九年〔一二七二〕になると蒙古来襲がいよいよ現実的なものとなり、幕府はその対応と体制引き締めを強行する。いわゆる二月騒動である。これはかねてより反得宗的な態度を示していた名越時章〔一二一五〜七二〕・教時兄弟と、時宗の執権就任を不満としていた時宗庶兄の北条時輔〔一二四八〜七二〕等が計画した謀反に対する幕府の誅滅事件で、朝廷においても中御門実隆〔生没年不詳〕が捕縛されていることから、背後に朝廷の関与があったものと思われる。宗尊は教時や時輔とは将軍時代より交流があったはずであり、彼等とどのような関わりにあったのかは定かでない。しかし宗尊が既に政治的敗者であった以上、表立った政治活動は不可能であろう。
 この慌ただしい世情の中、後嵯峨院が文永九年二月十七日、崩御した。後嵯峨院薨去を受け、宗尊親王は、二月三十日、覚恵と号し出家する。このとき後嵯峨院との別れを歌に残している。

憂き世をば秋はててこそ背きしか またはいかなる今日の別れぞ
『玉葉和歌集』

二年後の文永十一年〔一二七四〕七月三十日、蒙古来襲の足音を間近に聞きながら、宗尊親王はその生涯を閉じた。享年三十三歳であった。

九.追 補
 宗尊親王は当代屈指の歌人として多くの優れた歌を残した。それらはまた多くの歌集を構成している。以下に一部ではあるがそれら歌集について記載する。

『文応三百首』
「三百首和歌」とも、「中務卿親王三百首和歌」とも呼ばれる。文応元年(一二六〇)
以前に自撰して藤原為家・九条基家等の加点・加評を付した歌集。点者としてその
他に西園寺実氏、九条家良〔一一九二〜一二六四〕、六条行家〔一二二三〜七五〕、真観入道などが見られる。

『柳葉和歌集』
弘長元年〔一二六一〕から文永二年〔一二六五〕までの定数歌を集成した五巻から成る歌集。巻一の内題に「宗尊親王詠也」と記してある。

『瓊玉和歌集』
文永元年〔一二六四〕十二月に真観入道光俊が撰了した十巻から成る歌集。

『中書王御詠』
帰洛後、文永四年〔一二六七〕に過去二年間の詠歌を自撰して冷泉為家に加点・加判を請願した歌集。

『竹風和歌抄』
帰洛後の文永三年から同九年頃までの定数歌と自歌合から成る歌集。

『宗尊親王三百六十首』
一巻は『柳葉和歌集巻五』に相当する。

『宗尊親王御百首』
『柳葉和歌集巻一』巻首にある弘長元年〔一二六一〕の五月百首に相当する。

『三十六人歌合』
弘長二年〔一二六二〕九月に挙行された『三十六人大歌合』により三百六十首を収監。一巻より成る。

『新撰歌仙』
後鳥羽院から藤原秀能〔一一八四〜一二四〇〕まで、鎌倉時代初期・中期の歌仙三十六人の歌を十首ずつ選んだ、歌仙形式の秀歌撰。一巻 三十六首より成る。撰者、成立年代ともに不明。

『続古今和歌集』
後嵯峨上皇の院宣による勅撰和歌集。宗尊親王詠歌は六十七首を数え最多。冷泉為家・九条基家・九条家良・真観等によって撰了。

十.あとがき
 悲劇の貴公子です。皇族として歴史上これほど静かに、そして悲劇的な人生を送った人物は他に類を見ません。過去、同じように悲劇的な最後を迎えた皇族は、古くは飛鳥朝の大津皇子、平安朝初期の平城天皇、平安朝末期の崇徳上皇、南北朝の護良親王、新しいところで幕末の孝明天皇などが挙げられます。しかし彼等がその人生において少なからず自分の意志で行動したのに対し、宗尊親王は幼少の頃は後嵯峨帝に、青春時代は鎌倉幕府に行動を強制され、そこに自由意志というものが許されていません。抗うように親王は自分の世界を和歌に求めていきますが、それさえも幕府の嫌疑の的となってしまい最終的に鎌倉放逐の憂き目にあってしまいます。
鎌倉幕府としては、結局飾りものとしての将軍が意志を持った将軍となったことが許せなかったのでしょう。いかに幕府が文化的に開花しようとも、政権を脅かすと見なされるものは相手が誰であれ歴史の舞台から退場させる、不毛なまでの疑心暗鬼が北条氏の意識の中にあったものと思われます。飾りものの将軍を頂き、御家人の排斥を強行し、ついには一族内でその追い落としを謀っていった行動は、あの藤原摂関家に通じるものがあります。しかし藤原氏が前後一千年もの命脈を保ったのに対し、北条氏はわずか百五十年で族滅してしまいます。これは文でもって統治した公家に比べ武でもって支配しようとした武家の末路であるとも言えます。そのような環境の中に送り込まれた宗尊親王は不運であったとしか言いようがありません。
 宗尊親王はこの幕府内でよく健闘したと思います。露骨な体制批判を行えば九条頼経のような結末を迎える事は承知していたのでしょう。和歌によって幕府への執政不介入を示しつつ権威を維持し続けた手腕は秀逸で、また制度化による幕府の文化的側面を担った親王の功績は大きかったものと思います。最終的には政治的敗者となってしまいましたが、親王が残した詠歌や歌集は、後鳥羽院や源実朝と並び中世歌壇を研究する上で非常に貴重な資料となっていることは疑いのない事実です。
 帰洛後、親王は一応の復権を果たし多くの都びとと交流の場を設けたものの、異腹弟の後深草帝や亀山帝とどのような交流があったのか判然としていません。朝廷が持明院統・大覚寺統分裂の萌芽期にあったこの時代、親王が彼等弟達とどう関わったのか興味が持たれます。
 話は逸れますが、二〇〇一年放送のNHK大河ドラマ『北条時宗』には、宗尊親王役で吹越満氏が演じていました。元々お笑い系出身の異色俳優でしたが、破綻した脚本中にあってのドラマ前半の好演はまさに白眉で、その存在感は相当ありました。ただ、陰謀を張り巡らす「足利義昭」のようなイメージになってしまっていたのが少々残念です。もう少し歌人としての側面を出してもらいたかったと思います。ドラマ後半は脚本自体完全に崩壊していたので描かれ方は無茶苦茶でした。今後、親王に対する誤った歴史認識が根付かれないことを切に感じます。
 しかし三十三歳という若さで薨じてしまったのは、やはり心労であったことは間違いないでしょう。歴史的に見て実に惜しまれる逸材でした。もしかすると鎌倉にあって都を思い続け、和歌に耽溺した僅かな年月のみが親王にとって最も安らいだ日々だったのかも知れません。
義綱解説
 鎌倉将軍擁立・追放の流れは、北条氏がトップとしての将軍に就任できない以上、抱えていた矛盾である。すなわち、執権北条氏にとって、将軍は権威(形式的)には高い必要性があるが、権力(実質的)としては無力でなければならず、幼い将軍が成人し自然と意見を言い周りに人が集まるようになると、また新しい人物に挿げ替える必要が常にあったのである。その流れは宗尊親王の時代でも変わらなかったと言える。この傀儡の例は鎌倉時代のみならず、室町将軍や戦国期の大名などでも例に見られる。
 傀儡に利用された者は時の権力者により激しく運命を左右され、僅かな活動でも規制されてしまうという不運を抱えていた。しかし、形式上のトップという立場から、望むと望まざるに関わらず自然と反権力者勢力結集の象徴となってしまう点が、その不運さを増していると言えよう。この宗尊親王は望まざるのに反得宗と目され追放されたまさに悲劇の人物である。

BACK

「人物列伝」の目次へ戻る


このコンテンツは足利左馬頭義輝殿に著作権があるため転載は禁止です。
Copyright:2003 by yoshiteru ashikaga-All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama