人物列伝
「松平容保」

松平容保イメージ
↑松平容保イメージ像(畠山義綱画)

人物名 松平 容保(まつだいら かたもり)
生没年 1835〜1893
役職 会津藩藩主、京都守護職
参考文献 萩原裕雄『江戸幕閣100話』立風書房,1992
人物の歴史
 (会津)松平家9代当主。左近衛権中将。美濃高須藩藩主・松平義建の子。ちなみに容保の兄で尾張徳川家を継いで14代藩主となった慶勝、弟で伊勢桑名藩を継いだ定敬がいる。容保は 1846(弘化3)年に(会津)松平家の容敬に養子として迎え入れられて、1852(嘉永5)年養父・容敬の急死により18歳の若さで会津藩を継承し藩主となった。先進的な考えの持ち主だったようで、ペリーが浦賀に来航し日本の開国を求めたことに対し、容保は井伊直弼と共に開国を和親を提唱したと言われる。
 ペリー来航、日米和親条約締結、日米修好通商条約提携など混迷を極める幕府は、1862(文久2)年、14代将軍徳川家茂の下、将軍後見職(一橋慶喜が就任)と政治総裁職(松平慶永が就任)という役職を設置し、幕政改革を進めた。いわゆる文久の改革である。一橋慶喜はその改革の一環として1862年7月、尊王派の「天誅」により治安悪化の一途をたどる京都の秩序回復のため京都守護職を設置することを決めた。京都守護職は禁裏の警護、京都の治安維持、朝廷・幕府間の庶政決裁を担当し、その地位は従来からの江戸幕府の役職である京都所司代、大坂城代を超えるものと規定した。京都公家には薩摩の島津久光を任命するよう考える者がいたが、その重要で地位の高いポストのため、また幕府の京都での幕府威信回復のために、外様の島津ではなくなるべく幕府に近い人物を任命したいと考えていた。さらに京都守護職は、自前の藩兵によって京都の治安維持をし、さらに朝廷との交渉にも当たるため名門の藩主であることが前提とされた。その条件を満たしたのが佐幕派の星・松平容保であった。しかし、京都守護職就任は「火中に栗を拾う」ようなもので、会津藩国家老の西郷頼母は猛反対した。容保も再三固辞したのだが、政治総裁職・松平慶永が熱心な説得をしたのでしかたなく容保は承諾した。もともと会津藩は幕府に忠君深く藩祖・保科正之は「もし将軍家に二心をもつ藩主ならば、それは子孫ではない。家臣はそのような藩主に従ってはならぬ」という家訓を残したほどであるから、そういった会津魂を容保も十分理解して承諾したのであろう。
 1862年12月、容保は会津藩兵1000人を連れて京都入りし、尊王攘夷運動の取り締まり、公武合体論の推進に腐心した。容保はあまりの尊王攘夷派の暴行(幕臣の多くが血祭りに挙げられたり、等持院の足利将軍家歴代の木造の目を繰りぬき将軍家茂への脅迫としたりした)に耐えかね、1863年近藤勇を隊長とする新撰組を京都守護職配下に組み入れ、武力による治安維持を図った。また、孝明天皇と中川宮朝彦親王と尊王派の長州を朝廷から遠ざけるための策略を考えた。そしてそれは「八月十八日の政変」として具体化したのである。すなわち公武合体派の会津と薩摩が手を結び、長州を京都から追放したのである。その後、長州藩が朝廷奪回と息巻いて京都に攻めあがったが、会津・薩摩藩の協力で長州藩を禁門の変で破った。これらの容保の活躍で京都は落ち着きを取り戻した。孝明天皇はこの容保の働きを直筆の和歌を送るなどねぎらい、孝明天皇が死去するまでずっとその信頼を変えなかった。
 しかし、情勢は徐々に幕府不利に傾いていった。親幕府派だった孝明天皇が突如死去(一説には尊王派に暗殺されたとも言われる)し、幕府はその強力な後ろ盾を失った。さらに坂本竜馬が仲介に入り薩長同盟がなると、京都での会津藩の立場も一転して弱くなった。
 最後の江戸幕府将軍・徳川慶喜は倒幕の動きも激しくなり幕府軍が不利である事実から、1度朝廷に政権を返し雄藩連合政権を作りその中で主導権を握ろうと画策し、1867年大政奉還(政権を朝廷に返す)を行った。しかし、慶喜の思惑ははずれ朝廷は王政復古の大号令を発布し、天皇親政政治を行うと発表した。その頃、容保も京都守護職の任を解かれて今までの尊王攘夷派への弾圧の怒りを一手に引き受け新政府軍の最大の攻撃の的となってしまった。あてのはずれた慶喜は軍を率いて新政府軍と鳥羽伏見の戦いで合戦した。しかし、慶喜が戦わずして江戸に逃げ戻るとあっさり旧幕府軍は敗れてしまった。この後、容保は奥州にもどり新政府に陳謝を請うが前述のように許されず、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し新政府に対抗した。この同盟は、彰義隊の上野戦争後、難を逃れて奥羽に下向した皇族の輪王寺宮公現法親王を「東武皇帝」として擁立し、北部連邦政府構想の下、白石に政務機関である公議府を置くなど本格的な「政権」となっていったが、白虎隊の悲劇で有名な通り、会津藩は新政府軍に敗れ容保は官軍に捕らえられ謹慎の身となった。
義綱解説
 悲劇の中将様です。禁裏の女性たちにもすこぶる人気があったそうな。本当に「火中に栗を拾う」いい人です。まさに幕府のために尽くした忠臣ですね。佐幕派の星!幕府の切り札です。土佐藩も幕府に忠誠を誓う藩の一つですが、坂本龍馬の影響でそう見えないのですよね。実際、大政奉還後も元藩主山内容堂は徳川慶喜をかばういい人だったんでが。

☆「維新の嵐」(FC版)で登場する会津藩の人達のゲーム数値(シナリオ1:1858年)
(先進性・体力・精神力・学力・武力は200がMAX値。佐幕・公議・尊王の各思想値は3つ合わせて100)
俗事は「恋」「酒」「金」の貪欲さを示す。

名前 役職 思想 先進性 体力 精神力 学力 武力 年齢 佐幕 公議 尊王 俗事
松平容保 会津藩主 幕権強化 92 192 192 131 106 23 60 27 13 興味無し
菅野権兵衛 会津藩家老 幕権強化 39 170 170 63 86 30 43 22 35 興味無し
西郷頼母 会津藩家老 雄藩連合 84 170 170 140 92 28 28 48 24 興味無し
田中土佐 会津藩重臣 幕権強化 52 165 165 71 68 35 46 20 34 興味無し
神保修理 会津藩重臣 勤皇 69 170 170 72 94 20 25 28 47 興味無し
山本覚馬 会津藩士 勤皇 48 168 168 138 158 30 31 24 45 興味無し

 とにかく先進性が低く評価されている会津藩。勝者ビイキのコーエーは敗者の幕府軍に冷たい・・・。それにしても史実では佐幕派で結束した会津藩もゲームでは思想がバラバラ。まるで、佐幕派ではない特異な会津藩の人物を集めたのではないかと思えるほどの人選である。使える人材としては「山本覚馬」。思想を佐幕に塗り替えて先進性さえ鍛えれば強力な同志となろう。それにしても、俗事について藩のすべての人材がストイックなのは会津らしいと言えば会津らしい。

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