人物列伝
「今川氏真」

今川氏真イメージ
↑今川氏真イメージ像(畠山義綱画)

人物名 今川 氏真(いまがわ うじざね)
生没年 1537〜1614 
所属 今川家
主な役職 最後の今川家当主
参考文献 『戦国大名系譜人名事典東国編』新人物往来社
「今川義元−氏真の代替りについて」『戦国史研究』3号
「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40号
小和田哲男『戦国今川氏〜その文化と謎を探る』(静岡新聞社)
金子拓『戦国時代のおもてなし時代』(淡交社)
人物の歴史
 義元の子。母は甲斐の武田信玄の父・信虎の娘。出家して宗闇。従五位・上総守。一般的に今川氏真の評価は父・義元亡き後、領国を保てなかった人物として低く見られがちである。ともそればその為、氏真の事績の過小評価をすることにもなりかねない。例えば、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで敗れた敗れた後、なぜすぐ体制を立て直せなかったのかという理由にも氏真の消極性や文弱であるという理由を挙げる書物が多い。しかし、同合戦に於いて今川方は動員した25000人の兵のうち、500の武士の首と2500の雑兵の首が織田方にあったというから実に3000人の被害があったようだ。さらに、井伊谷城主・井伊直盛、二俣城主・松井宗信、曳馬城主・飯尾乗連が討ち死にし、義元の側近の三浦馬助、由比美作守、関口越中守なども犠牲となっていて損害が多かった。さらに大名である今川義元も亡くなっているので、すぐに領国を立て直すことは氏真でなくても困難であったに違いない。
 さて、今川家の家督が義元から氏真に代替りしたのは、義元が信長と戦った1560(永禄3)年に桶狭間で討たれてから家督を継承していたと思われている。しかし、有光友学氏は「今川義元−氏真の代替りについて」(『戦国史研究』3号)において、1558(永禄元)年から氏真の駿遠関連の発給の文書が見られること、義元の発給文書が三河中心になっていること等から、1559(永禄2)年に氏真への代替りが行われたとしている。同氏は義元没後、「まがりなりにも駿遠を十年近くもちこたえることができたカギもそのあたりにあったと考えられる」と言うように、氏真の治世も旧来よりなかなかの実績があったことを示している。
 氏真は蹴鞠や和歌などの芸能等の実績が注目されるが、当主としての実績に楽市楽座を実施したこと、武田信玄の駿河侵攻等に対する措置としての塩の送付停止等の実績がある。また外交面でも、失墜した今川家の権威を、室町将軍・足利義輝に接近することによって回復しようと試みたことも、平野明夫氏の論文によって明かになっている。氏真の戦績はというと、過去氏輝(義元の前当主)の後継者紛争が起こった時に反義元派であり、武田信玄と好を通じた堀越氏延と飯尾氏を1563年に滅ぼした戦績がある。しかし、駿遠防衛戦では良い戦果を残せなかった。
 松平元康(徳川家康)が三河で今川家から独立し、さらに1568年に武田信玄に駿河に攻め入られると家中は混乱し、まともに闘えなかったので、氏真は信頼する家臣・朝比奈泰朝がいる掛川城にて態勢を立て直そうと遠江へ逃げる。しかしそれも、翌年に徳川家康の遠江侵攻が始まり掛川城は開城、氏真は婚戚関係にある北条氏康の下に逃げた。この時点で戦国大名今川氏は滅亡する。
 氏康死後は跡を継いだ氏政の政策により北条家を追い出され、徳川家康を頼り浜松城へ行く。氏真は家康に牧野城(旧諏訪原城)城主として迎えられるが、後に再び流浪する。1573(天正3)年に「物詣で志ありて」と1月13日に遠江を出立し、4月23日まで京都に滞在した。その目的は本人の言葉通り「物見遊山」であったと『今川氏真詠草』(国立公文書館内閣文庫所蔵)に記録されている。氏真は「金閣は三重にして塔の如し」と観光したり、父の仇敵・信長の前で蹴鞠を披露したり、晩年には江戸に住み幕閣の人物に芸能を披露するなどして過ごした。また和歌で有名な冷泉為満と交流を持ったり、滞在中250首の歌も読んでいてい文化人としての秀でた才能を残した。幼少の頃より芸能に造詣が深かったのがまさに「身をたすく」という状態だったようだ。京都を離れる前に
「忘れぬと 家つとにせむ 帰るさの 花の都の 面影の空」と読んで家に帰るにあたって京都の景色を土産(家つと)にするという離れがたい思いを読んだ句であると言う。氏真作の和歌が1700首も残るなど和歌の実績においても素晴らしい成果である。
義綱解説
 やはり義綱は、どうも滅亡した大名家に興味を持っています。、調べて見ると、氏真はそれほど凡愚な当主ではなかったようにも思えます。特に政治面では色々な諸政策を施していますし、全く駄目とされていた戦績についても、武田に内通した反乱分子・堀越氏を当主として滅ぼしています。今川家を滅亡させた人物、後年文化・芸能に没頭した人物であるから氏真が凡愚だと言う先入観をもってしまいがちですが、よく氏真を見ていくとこんなにも活躍した跡を見つけることができるんですね。

☆信長の野望での今川氏真能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技・策戦 個性
戦国群雄伝 15 13 60 20
武将風雲禄 26 21 77 88 21
覇王伝 61 10 8 72 5
天翔記 124 32 60 84 10
将星録 57 18 11
烈風伝 47 1 10 30
嵐世紀 37 7 24 60 足軽・槍 逃亡
蒼天録 38 8 4 2 足軽 茶湯・迎撃
天下創世 39 7 5 80 なし
革新 70 6 8 10 なし
天道 70 6 8 10 鎮静
創造 61 23 2 11 鼓舞・幸運
大志 60 27 27 24 30 お調子者・本陣斬込 士気向上 家名存続

 戦国群雄伝、武将風雲禄ではかなり能力値は低い。恐らく、ゲーム中一番の凡愚武将ではなかろうか。しかし、覇王伝で一気に政治能力が高まる。近年、氏真の政治面での評価が高まった証拠であろう。氏真の能力値は天翔記を境に漸減の傾向にあったが、蒼天録で下げ止まった。しかし、嵐世紀・蒼天録・天下創世では武将風雲録並の低能力値になってしまった。個人的には天翔記の能力値が適正なのではないかと思われる。数値の中では、蒼天録の野望値「2」に示されるよう、野望値が低いのが特徴。また、武将風雲禄・天下創世における教養値の高さもさすがである。革新では政治値が大幅に上昇するも、創造の全国的な地方武将の能力値デフレにおいて若干下がった。個人的には覇王伝や創造の政治値60位が適当ではなかろうかと思われる。それにしても、創造の「特性」で「幸運」とあるが、これは氏真の後世を表したものだろうか?ゲームにどんな影響があるのだろう?大志において知略が+25、統率が+13と急上昇。極端な能力値がなくなったようだ。それにしても戦法の「お調子者」ってどんな戦法だ?

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