このコンテンツは、戦国時代のみならず、鎌倉・南北朝時代にも詳しい足利左馬頭義輝殿に投稿頂いたコンテンツです。
日向に向かいそして散った畠山氏の直顕の歴史。足利左馬頭義輝殿の力作をどうぞご覧下さい!
なお、このコンテンツは足利左馬頭義輝殿に著作権があるため転載は禁止です。

人物列伝
「畠山 直顕」

人物名 畠山直顕(はたけやま ただあき)
生没年 生没年不詳
所属 南北朝時代の武将
人物の歴史
生没年不詳。鎌倉末・南北朝時代の武将。七郎・修理亮と称する。父は畠山宗義。足利尊氏に属し、建武三年・延元元年〔一三三六〕三月頃から尊氏の命令で島津貞久らとともに日向・大隅・薩摩の三国で転戦する。
『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社)

一.畠山直顕の登場

修理亮。治部太輔。初め義顕を名乗る。
延元元年・建武三年〔一三三六〕三月二日の筑前・多々良浜合戦を制した足利尊氏は、「九州をひたす混ら打捨てはなか叶ふまじ〔『太平記』〕」として九州の抑えに一門の武将を九州に留め置くこととなった。この時、尊氏の命で一色道猷範氏、仁木義長らと共に九州に派遣されたのが畠山直顕である。
一色範氏が九州探題として筑前・博多を拠点に北部九州の経略を任じられたのに対し畠山直顕は日向・むかさ穆佐院を拠点に薩摩・大隅・日向の南部九州の経略を任された。その目的は日向・大隅の掌握と、南部九州に割拠する南朝方勢力の一掃にあった。当時南九州には、薩摩に谷山隆信・伊集院忠国、大隅に肝属兼重、楡井頼仲、日向に伊東祐広らが南朝方として精強を誇っており、武家方の中心として薩摩守護・島津貞久がこれらの勢力と対峙していた。しかしこのような畠山直顕の日向下向は、大隅・日向への領土的野心を持つ島津貞久の思惑と正面からぶつかり、必然的に領国内における島津・畠山の確執が表面化する。
直顕が拠った穆佐院は、足利尊氏正室・登子の実家である赤橋氏の所領であったことから足利氏の直轄地となり、ここに堅固な城砦・穆佐城が築城された。直顕には日向の有力武将・伊東氏祐や土持宣栄らが直属の配下として与し、南朝方勢力への攻勢を強めていった。興国元年・暦応三年〔一三四〇〕、大隅の南朝方・肝属兼重が拠る日向・月山日和城を攻めた直顕はこれを落として兼重を逐い、以後日向における支城として整備する。続く興国三年・康永元年〔一三四二〕五月、征西将軍宮懐良親王が薩摩・谷山に入奉すると、直顕は肝属兼重や楡井頼仲らを抑え込み大隅からの征西府への援助を遮っただけではなく、興国五年・康永三年〔一三四四〕頃には薩摩の渋谷重興を率いて谷山御所攻撃を行うなど積極的な行動をとった。
これらの軍事行動を支えた畠山直顕の経営基盤は、日向・穆佐院の他に大隅に散在する大隅正八幡宮領を始めとした神官系領主や在庁系領主を組織したものであった。大隅における島津氏の勢力は概ね大隅島津荘に拠るが、これに対し直顕はその支配力が守護家・島津氏より強大なこれら神官系・在庁系領主を取り込むことによって大隅における勢力拡充に成功していたのである。鎌倉以来の名門で大隅守護を自負する島津貞久とすれば当然、大隅のこのような状況は受け入れ難く、更に直顕の軍事行動も九州探題・一色範氏の軍事裁量権に拠っていることも貞久の憤懣を一層増大させた。直顕の薩摩・大隅への影響力拡大は、やがて南九州における南朝対北朝という対立に島津対畠山という新たな対立の構図を生み出す結果となったのである。

二.観応の擾乱と薩・隅・日三州

興国六年・貞和元年〔一三四五〕九月、畠山直顕は幕府から日向守護職に任ぜられる。これにより島津貞久の不満は頂点に達し、直顕は正平五年・観応元年〔一三五〇〕から始まる観応の擾乱によって島津=尊氏方と九州南朝方との二つの敵と戦うことを余儀なくされる。
観応の擾乱で直義・直冬方についた直顕は、尊氏方の島津貞久と激しく合戦に及ぶ一方これに南朝方・楡井頼仲が絡む三つ巴の様相を呈していた。この状況の中、次第に薩摩・大隅で孤立した貞久は正平六年・観応二年〔一三五一〕八月、九州南朝の本拠・征西府に降伏する。しかし翌・正平七年・観応三年〔一三五二〕二月の足利直義の死去とそれに続く足利直冬の九州撤退は、直顕に大きな影響を及ぼした。一転して四面楚歌に陥った直顕は一切の外征を取り止め穆佐城に籠もり抗戦したが、足利直義・直冬を失って弱体化した筑前大宰府の少弐頼尚とは異なりその勢力を減衰させることはなかった。これは日向の伊東氏や土持氏を直轄軍とし、また大隅の称寝氏や肝属氏といった反島津派豪族を良く懐柔していたためであり、外敵に対抗するだけの戦力は保持していたのである。特に肝属氏に対しては、それまで南朝方にあった肝属兼重没後当主となった秋兼を自陣に引き込むことに成功している。そのため、その年の四月から八月にかけての大隅・日向合戦で直顕は、再び幕府方となった島津勢の攻勢を撃退、島津貞久嫡子・氏久を領国薩摩へ駆逐している。
観応の擾乱が一応の終息を見た後も続く九州の争乱に幕府の足利尊氏・義詮父子は強い懸念を示し、果たして畠山家と島津家はどちらが幕府陣営にあるのかといった詰問状を九州探題・一色範氏と豊後守護・大友氏時に発するほどであった。この問い合わせに一色範氏は、島津貞久は味方、畠山直顕は敵と明確に回答したが、大友氏時は文和元年〔=観応三年・南朝年号正平七年〕〔一三五二〕以後は何れが敵味方か計りかねると幕府に返答している。当時の九州の混乱ぶりを示す事例ではあるが、大友氏時の回答のほうがむしろ実情に即している。いずれにしてもこの頃の幕府に畠山・島津の抗争を裁定し牽制する余裕はなく、同じ武家方でありながら武家同士が抗争を続けるといった歪な構図が九州に現れたのである。畠山直顕はその後も島津勢を圧迫し、正平九年・文和三年〔一三五四〕頃には大隅をほぼ掌握、攻守は完全に逆転していた。幕府の救援も得られず追い詰められた島津氏久は、ついに正平十一年・延文元年〔一三五六〕十月、三条泰季に恭順の意を示しまたしても征西府へ降伏する。
島津勢の南朝降伏により九州において単独一派の形となった畠山直顕であったが、その活動は以前にも増して活発化した。それまで征西府方にいて反島津を唱えていた諸豪族が島津との共闘を嫌い征西府から離脱、次々と直顕に靡いたのである。思わぬ形で勢力が増大した直顕が次に狙いを定めたのが楡井頼仲であった。直顕は正平七年・文和元年〔一三五二〕十二月、大隅で蜂起した頼仲を迎撃するなど、以前より日隅国境で激しく干戈を交えており、正平十一年・延文元年〔一三五六〕にかけては大姶良城や大崎・胡麻崎城を巡る合戦で攻防を繰り広げている。楡井頼仲は大隅ではほぼ唯一南朝一辺倒の武将で、寡兵ながらも精強を誇った猛将であったが、圧倒的多数の畠山勢の前に徐々に追い詰められ、正平十二年・延文二年〔一三五七〕二月、遂に居城・志布志城で自刃した。この楡井頼仲の討死は征西府にとって重大で、九州南朝の総帥・懐良親王は否応なしに日向守護職・畠山直顕に目を向けさざるを得ない状況となったのである。
京より遠く離れた日向における直顕のこうした隆盛を支えた要因は、直顕の一貫した反島津の行動とそれを支持した大隅や南薩の豪族群の存在であった。古代律令制以来、大隅・南薩に蟠踞した国衙官人系の在地諸豪には、鎌倉期に薩摩へ入国し強力な守護権を行使する島津氏に対して根強い反感があった。その反感が、谷山隆信などのような南薩の諸豪は懐良親王へ、肝属秋兼ら大隅の諸豪は畠山直顕へ従う結果となったのである。
畠山直顕は日向に入ると穆佐院と三俣院をまず完全に掌握した後穆佐城に自ら本拠を置き、三俣院高城の日和城に子息・重隆を入城させ基盤とした。その上で旧来の在地豪族たちの支持・協力を受け、北隅・新納院など島津庄領のほとんどを次々と制圧し、島津氏に代わる新たな日向守護としての地盤を築き上げていった。従って直顕の九州下向に伴う勢力扶養の手法は、懐良親王が薩摩津に上陸し菊池に向かうまでの行動と驚くほど近いものがある。そこには離合集散を繰り返す直義・直冬党や幕府を頼みとせず、ただ直顕を支持する反島津の在地豪族たちの期待を後楯とした、直顕独自の九州経略の様子が窺える。

三.日向畠山氏の落日

日向・大隅を掌握し、肝属氏の取込みに成功し更に楡井頼仲を滅ぼした畠山直顕の南部九州での優位はこれで確立されかに見えた。しかし正平十二年・延文二年〔一三五七〕四月に強行された、新納〔島津〕実久の拠る志布志松尾城への攻撃は、救援に駆けつけた島津氏久の迎撃に遭い失敗、櫛間に退いた直顕は日向の伊東氏祐に援軍を求めたが得られず結局穆佐城へ撤退せざるを得ない大敗に終わった。この敗戦はいたずらに兵力の疲弊を招いただけの大きな打撃であった。直顕は穆佐院で兵力の再編を行ったが思うに任せず、やがて菊池武光の日向侵攻を迎えるのである。
正平十三年・延文三年〔一三五八〕十一月、懐良親王を推戴する菊池武光が五千余騎の兵力で日向遠征を敢行し、十一月十日、大挙して日向に入り穆佐城を攻囲した。前年の島津氏久との敗戦で勢力を弱めていた畠山直顕は、穆佐城での抗戦は不利と判断し子息・重隆が拠る三俣院高城の日和城へ軍勢を集中させる戦術をとった。日和城の要害を頼りに長期戦に持ち込もうとしたのである。直顕は穆佐城を脱出すると青井岳を越えて日和城に撤退したが、菊池軍の追撃は直顕の想像を超えた速さであった。篭城する間もなく直顕は追撃して来た菊池武光の軍勢と大淀河畔の千町〔戦場〕川原で激突した。しかしこの時すでに畠山軍に抗戦する力は無く、菊池武光の猛攻を受けた畠山直顕・重隆父子は城に籠もることすらできないまま志布志方面へ潰走、十一月十七日、日和城は陥落した。
畠山直顕の没落は、それまで逼塞状態にあった島津氏久の急速な勢力拡大をもたらした。表面上征西府への帰順を示していた氏久は、この機に乗じ大隅・日向の畠山残党を掃討、薩・隅・日三州への影響力を一気に強めていった。
一方、辛うじて穆佐城に帰還した畠山直顕に昔日の勢いは既になく、わずか穆佐院周辺に余勢を保つのみとなっていたが、武光が日向を去った後この島津の動きに対し再起する。正平十四年・延文四年〔一三五九〕十月二十七日、直顕は肥後・人吉の相良定頼らと共に日向へ攻め込み、大隅・国合原で島津氏久と合戦、その後なおも大隅・帖佐の萩峰城や溝辺城で畠山直顕と島津氏久は干戈を交えた。『相良家文書』にも見られるように相良定頼との接触は、日向・大隅を失った直顕が『宮方』にある島津家との共闘先を南肥後の相良家に求めた窮余の策であった。

畠山直顕預ヶ状(『肥後相良家文書』)
日向国北郷領家職事、為兵粮糧所、々預置也、任先例、致沙汰、可被抽軍忠、仍執達如件、

延文四年十一月十四日
治部大輔〔花押〕
相良遠江守殿
しかしこの頃、幕府より再三に渡る武家方復帰を促された島津氏久は正平十五年・延文五年〔一三六〇〕春、征西府への叛旗を翻し再び武家方へと転じる。氏久としては大隅・日向の支配権を畠山直顕から奪取さえできれば良い訳で、自らを脅かす勢力が消滅したことにより武家方守護として幕府へ回帰できるとの判断があったものと思われる。
これに対し菊池武光との戦いで弱体化した直顕はもはや独自の行動は起こせなかった。島津氏久の転身によって対島津家の大義名分をも失い、ここに至り直顕はついに氏久に書状を送り対征西府の連合を申し入れる。『薩藩舊記』には直顕が島津氏久に宛てた正平十五年・延文五年〔一三六〇〕六月十三日付けの書状が残されている。

畠山直顕書状『薩藩舊記』
寫在氏久公御譜中
應当御所御教書既被参御方云々、此上者兼公私成同心之思、可退治凶徒候、此段不可在異儀候、且以神仏所為證之状如件

延文五年六月十三日
直 顕(在判)
島津修理亮殿
幕府方でありながら反島津を標榜し島津家と戦い続けてきた直顕にとって島津氏久との連合は、生き残りをかけた最後の手段であったものと考えられる。しかし結局は畠山・島津は相容れ得ない存在であり程なく両者は決裂する。直顕は島津家と征西府との抗争の間隙を縫って大隅・志布志へ再度進出したが、逆に島津氏久に迎撃され櫛間・飫肥に潰走、更に日向を経て豊後へと遁走した。この敗戦は直顕にとって最後の決定的打撃となった。この年、直顕が最終的に日向から撤退し、ここに二十四年に及ぶ畠山直顕の九州経略は終わりを告げた。
畠山直顕・重隆父子のその後の足跡は明らかではない。しかし『大田原文書』によると、畠山直顕はその後九州探題・今川了俊貞世に従軍し、天授三年・永和三年〔一三七七〕、探題勢と共に肥後へ侵攻したという記録が残されている。

四.あとがき

資料が極めて少ないので、畠山直顕が登場する文献から事績を抽出しつなぎ合わせた内容となりました。そのため直顕の当時の心境などは推し量るべくもありませんが、日向における二十余年の事績を見る限りでは決して愚将・凡将ではないと思います。
特に尊氏の名代として日向に入り薩摩・大隅における反島津の気運に着目し、自らの貴種性を存分に生かした在地豪族の支持取付けの成功は、瞠目すべき成果と考えます。これは同時期に薩摩に入り味方を募った懐良親王の手法と全く同じ思考で、新来守護にも拘らず複雑怪奇の極みにあった薩・隅・日三州に安定した経略を実現した直顕の手腕は充分評価に値するでしょう。
また、同じ幕府の一員にありながら島津家と領地争いを演じるなど、直顕自身がやがて中央の幕府指示に従うことなく変貌した戦国群雄の様相を示し出した点も興味が持たれるところです。
結果的に直顕は、九州最強の戦闘集団を率いる菊池武光によって日向を追われ歴史の表舞台から姿を消してしまいますが、九州探題・一色範氏以上に孤立無援な日向の地で精強な菊池武光や老獪な島津貞久らと渡り合っているところなどは一筋縄ではいかないしたたかな良将であると思います。九州にた起った足利一門は何人かいますが、とかく凡将が多かった一門武将の中にあってこの畠山直顕は実に優秀な武将の一人だったと言えます。
出展は主に『薩藩旧記雑録』、『肥後文献叢書』、『菊池市史 上』、『日向記』、『太平記』などを参照しました。
義綱解説
 畠山直顕に関する資料は少ないので、幕府から日向守護職に任命される前の直顕の生き様はよくわかっていない。しかし、南北朝の動乱で混迷を極める九州を抑える役目の足利一門として日向守護に任命されたことを考えるとそれだけ実力のある人物であったのであろうか。実際、九州では孤軍奮闘して勇敢に戦いぬいている。結局は敗戦して歴史の表舞台から消えたとはいえ、強敵を相手によく戦ったすごい人物である。

BACK

「人物列伝」の目次へ戻る


このコンテンツは足利左馬頭義輝殿に著作権があるため転載は禁止です。
Copyright:2006 by yoshiteru ashikaga-All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama