人物列伝
「藤原頼経」

人物名 藤原 頼経(ふじわら よりつね)
生没年 1218〜1256
所属 鎌倉幕府
主な役職 鎌倉幕府第4代将軍
本人性格 摂家将軍(藤原将軍)の始まり
参考文献 石井清文「藤原頼経将軍暦任元年上洛の意義」『政治経済史学』344号.1995年
石井清文「北条泰時時房政権期に於ける三浦氏」『政治経済史学』411号,2000年
(共著)『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社,1985年
人物の歴史
 鎌倉幕府第4代将軍。左大臣。藤原道家の三男。幼名三寅丸。藤原頼経は「九条頼経」とも表記する。鎌倉幕府は周知の通り、源頼朝が開府した幕府である。その為、将軍は源氏流の棟梁が継承した。しかし、1219年3代将軍・源実朝が甥の公暁によって暗殺されると、頼朝以来の血筋が途絶えてしまった(実朝死去後唯一残っていた源氏の嫡流2代将軍頼家の子・公暁は実朝暗殺直後に殺されている)。そこで、当時幕府で実権を握っていた北条義時とその妻・政子は鎌倉幕府の権威高揚の為、将軍に皇族をつけることを画策したが、幕府の弱体化を狙う後鳥羽上皇に拒否された。そこで、幕府は頼朝の姪の娘が生んだ摂関家の藤原頼経を将軍に迎えることにした。摂家将軍(藤原将軍、公卿将軍、七条将軍とも言う)の始まりである。この時、頼経はわずか2歳であり、鎌倉幕府の実権は、完全に将軍から執権の北条氏の下へと移った。なお、正式に頼経が将軍に就任したのは実朝の死後7年もたった1226年であった。その間は正式な将軍は不在であった。
 頼経が鎌倉に下向して3年目、1221年に後鳥羽上皇の倒幕挙兵である承久の乱を経験するが、この時まだ5歳。同乱には全く関係してなかったであろう。1224年には一時鎌倉の棟梁の座を奪われそうになることもあったが、1225年には元服、1226年には正式に征夷大将軍となった。1237年に頼経は将軍として御家人達を伴なって上洛し8ヶ月もの間滞在した。上洛中は実家である九条藤原家や鎌倉下向前に頼経が養育されていた西園寺家などで随分歓待されたらしい。さらにこの時、頼経は権大納言に任じられ、官位もかなり高まった。
 京都から鎌倉帰った後、執権・北条泰時に不満を持つ北条氏庶流・名越氏が頼経に接近する。10歳を過ぎた頃から頼経は次第に自分の意見を口にするようになり、しばしば泰時に制止されているが、上洛した当時、頼経も20歳となっており、主体性を発揮できる年齢となっていた。反得宗派が打倒北条の切り札として将軍・頼経に接近してもおかしくない時期である。そして、この動きは1242年、北条泰時が死に嫡子経時が執権を継いだ頃から活発化する。名越氏に次いで得宗家と対立する大豪族の三浦氏、千葉氏が頼経に接近し、側近集団を形成するのである。この動きを抑えたい執権経時は、頼経の子・頼嗣を元服させ頼経に迫って将軍職を頼嗣に譲らせる事に成功した。しかし、頼経は前将軍の権威を立てに鎌倉に留まり、三善康持、千葉秀胤等を引き入れて一層反得宗色を強めた。1246年、ここに至ってついに執権経時は実力行使に及び、頼経邸を攻撃・封鎖し、頼経は京都追放、頼経側近は処断という処分を行った。結局は敗れてしまった頼経であるが、執権北条得宗が傀儡将軍として擁立した摂家将軍が、ここまで幕閣に力を及ぼすようになった事実は、改めてトップの権力が侮れない事を知る事ができる出来事として貴重である。頼経の京都追放翌年の法治合戦(三浦氏の反乱)において、三浦氏が頼経の鎌倉帰還を図るなど、その後も京都の藤原道家・頼経の権力回復工作が続けられた。しかし、早くも1152年には頼経の子で5代将軍であった頼嗣が将軍の座を追われ、摂家将軍の時代は終わり、皇族が鎌倉幕府将軍に着く皇族将軍の時代が始まるのである。
 なお、頼経はあまり健康でなかったらしく、頼経が10歳の頃に「護持僧と陰陽師の結審にによる護持システムが作られた。」(石井清文「北条泰時時房政権期に於ける三浦氏」『政治経済史学』411号,2000年)という。ただ、石井氏によると、これらのシステムは頼経の健康を保持するという目的の外に、健康上を理由にして北条得宗が頼経の行動をコントロールする目的があったと指摘している。結局北条にとって摂家将軍の役目は皇族将軍へのリリーフ(中継)でしかなかった。しかし、北条得宗家専制が強まる中で、反得宗派として摂家将軍が求心力を増していったことは、歴史の皮肉と言えよう。
義綱解説
 3代で頼朝の血筋が絶えた鎌倉将軍は、その後北条得宗の都合の良い人物が就任する事となり、「傀儡君主」の代表格とも言えるポストになる。しかし、かなり権利を抑制された摂家将軍・頼経でも、執権北条氏に対して実際に反得宗派側近が形成し、反抗をしたことは「傀儡君主」が全くの傀儡で有り続けるのではなく、主体的に行動し対立する余地があったことを物語る。これは、他の「傀儡」とされる立場の人物にも当てはまるといえ、改めて傀儡を擁立した人物側からの歴史を見るだけでなく、傀儡として擁立された側の視点を持つことの重要性を教えてくれるのではなかろうかと思う。

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