人物列伝
「足利茶々丸」

足利茶々丸イメージ
↑足利茶々丸イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)
生没年 ?〜1498
所属 堀越公方
主な役職 第2代堀越公方
参考文献 家永遵嗣「堀越公方府滅亡の再検討」『戦国史研究』27号
小和田哲男「堀越公方の政治的位置」『地方史静岡』11号
小和田哲男『中世の伊豆国』清文堂出版、2002年
(共著)『神奈川県史通史編1−原始・古代・中世−』
(共著)『戦国大名論集3 東国大名の研究』
人物の歴史
 政知の子。2代目堀越公方。堀越公方は初代公方・足利政知によって誕生する。鎌倉公方(のちの古河公方)・足利成氏が室町幕府と敵対した為、1457(長禄元)年に時の将軍・足利義政の弟・政知を関東公方とすべく派遣した。しかし、政知が幕府から奉行人などを連れて下向しても鎌倉公方(古河公方)に組する諸勢力はなかなか寝返らず、政知は鎌倉に入ることすら出来なかった。そこで、足利一門にして軍事力も期待できる今川氏の影響力が及ぶ堀越に政知は居を構えたのではないかと小和田哲男氏(「堀越公方の政治的位置」より)は指摘している。堀越公方はその性格上、幕府の影響を色濃く受けていた。また、政知が連れてきたのは、奉行人だけで、軍事力をもって下向しなかったので、堀越公方の影響力は強大ではなかった。さらに1482(文明14)年に将軍義政と古河公方の成氏との和睦する「都鄙和睦」が成立すると、そもそも政知の鎌倉下向し公方就任するという大義名分は失われ、「堀越公方」の政治的価値は著しく低下した。それでも、義政は和睦の条件として「政知の待遇改善」を要求しており、政知存命中は古河公方の対抗勢力として一定数の力は残存し、なんとか影響力を維持し得た。

 しかし、それが大きく変わってしまうのは、初代堀越公方・足利政知が死去した1491(延徳3)年4月からである。政知の死因は、茶々丸が殺したとも言われるが、小和田哲男氏は政知はその年の正月から食事が取れない状況だったとし、これを病死の暗示としており、さらに13回忌の資料から病死であることは確実と指摘している。
 さて、政知には3人の子どもがいた。先妻との子の茶々丸。京都の武者小路隆光の娘を後妻の子である次男の清晃と三男潤童子である。政知の後妻はなんとか自分の子の潤童子を後継者にするべく先妻の子・茶々丸を狂乱を理由に牢にいれていたという。
 政知が病死した3ヶ月後牢を脱出した茶々丸は、政知の後妻と潤童子を殺害し2代目公方を名乗る。茶々丸単独の行動なら反乱は一過性に終わるが、その後無事に後継となったことを考えると、恐らく2代目の公方として茶々丸を推すグループと、潤童子を推すグループに家中が元々分かて争っていたのであろうと推測する。ちなみに次男の清晃は茶々丸の攻撃から難を逃れ、駿河今川氏親に保護を求め、氏親に京都に送り届けられ、後に室町幕府の11代将軍となる義澄となる。

 こうして堀越公方は一旦は茶々丸の下に収束された。しかし、通説だとその年にさらに茶々丸が2人の家老外山豊前守と秋山蔵人を殺して騒動が生じ、その堀越公方家内乱の隙をみて、伊勢宗瑞の伊豆侵攻が行われると言われる。しかし、小和田哲男氏によると、その2人の家老殺害と伊勢宗瑞の伊豆侵攻を『鎌倉九代後記』(『韮山町史』3より)は「明応年中」と記しており、他の資料との確認により家老殺害事件と伊勢宗瑞の伊豆侵攻の年次を1493(明応2)年と見ている。すると少なくとも茶々丸の堀越公方としての治世は1年以上に渡って続いていることになる。つまり堀越公方が茶々丸の代になって即刻滅亡したというのは、北条早雲の行動を美化したものかもしれない。ちなみに茶々丸が2人の家老を殺した理由を『北条五代記』では奸臣による讒言としている。小和田氏はひとつの推論として山内上杉と扇谷上杉の対立から家中もそれに巻き込まれ、その対立から諫言があったのではないかとしている。先に見てきたように、堀越公方家は、そもそも先妻と後妻のために茶々丸派と潤童子派(反茶々丸派)で家中が割れていた。家中にグループが形成されているということは、一端茶々丸が実験を手中にしても、形成が不利とならば反茶々丸派の台頭を許すことになる。家老の殺害事件をきっかけとして、家中の統制が乱れ、その隙に伊勢宗瑞の侵攻を許し、反茶々丸派はこれを機に伊勢宗瑞方についたことは想像に難くない。しかも、茶々丸は後妻を殺したことで幕府とも対立しその存在価値を一層落とした上、次男の清晃(後の義澄)が駿河今川氏親に保護されたことで、政知以来最大の後援者である今川家も敵に回しており、堀越公方家は極端な話では伊勢宗瑞でなくとも外部からの侵攻を容易に許す下地があったと言えよう。

 ただ従来、堀越公方の滅亡が1491(延徳3)年に求められたのに対し、家永遵嗣氏が「堀越公方府滅亡の再検討」において、その滅亡時期の再検討を行った結果、1491(延徳3)年以後も茶々丸の活動が知られ、「少なくとも明応五年まではなお伊豆・武蔵・甲斐を基盤に活動を続けていた」としている。堀越公方の勢力は一枚岩ではなかったものの、1491(延徳3)年以後も伊勢宗瑞に対して反抗活動をしている。家永氏前掲論文によると、茶々丸は1495(明応4)・1496(明応5)年頃の伊豆での伊勢宗瑞の発給文書は戦乱関連のもので、伊豆における戦乱がまだ収束してなかったことを知らせるとしている。一方、茶々丸の行動は1496(明応5)年に武蔵から都留に移ったと言う記録があることから、家永氏は武蔵や都留が山内上杉の勢力圏であることから茶々丸が「山内上杉氏と関係をもって活動している」のではないかとしている。伊勢宗瑞からの防衛に奔走した茶々丸であったが、1498(明応7)年に切腹をし紛争が終結するのである。
 鎌倉公方との対立の関係から周囲と対立しつつも室町幕府の全面的バックアップがあってはじめて主体的に活動できた堀越公方にあって、将軍を含む今川氏などの従来の有力後援者を敵に回した茶々丸が堀越公方を存続させるにはどだい無理があったのであろう。
義綱解説
 堀越公方はついつい野球で有名な「堀○学園」の影響か「ほりこし」と読んでしまいますが(笑)、伊豆の国市の堀越御所跡のある「堀越」の地名の読み仮名は「ほりごえ」で堀越公方も正しくは「ほりごえくぼう」であると、小和田氏が指摘しています。(「堀越公方の政治的位置」より)私もついつい「ほりこし」って読んでしまうんですよね。私義綱は、どうしても古河公方やこの堀越公方のように実力のない政治組織が非常に好きです。しかし、古河公方がその影響力を最近見直されています。堀越公方が在所した「堀越御所」は発掘調査によると、甲斐武田氏の躑躅崎館にも劣らぬ程の巨大な居館であることがわかっており、世界遺産に認定された「韮山反射炉」と並んで伊豆の国市の有名スポットとなって欲しいと思っています。

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