定例チャット第十三回討論会、過去ログ16
「室町幕府と将軍権力〜義栄・義昭期 幕府の黄昏 去り行く将軍たち〜」

平成廿参年睦月九日日曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、公方様、畠山義綱、途中長続連様が加わる)


小姓 > 畠山義綱殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 20時からチャット討論会を始めたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
左馬頭義輝 > 修理殿。お久しぶりです。こんばんは。
畠山義綱 > こんばんわ>公方様
畠山義綱 > 掲示板に略年表ありがとうございます。それにしても義昭の事例は多いですね<略年表
左馬頭義輝 > やはり少し時間ずれ込みそうです。20分ほどで戻ってきます。申し訳ありませぬ。
畠山義綱 > 了解です。いってらっしゃい。>公方様
小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > こんばんわ>武藤様
武藤舜秀 > こんばんは
武藤舜秀 > よろしくお願いします
畠山義綱 > 今回はいよいよ室町将軍最終章ですね。
武藤舜秀 > 先ほどまで大阪におりましてようやく帰ってきて夕食を食べて参陣つかまつる
畠山義綱 > あら!食べている最中ですか?<夕食>武藤様
武藤舜秀 > 大河見ながら参陣です。
武藤舜秀 > 夕飯は済みましてござります
畠山義綱 > DVDに撮ってあったんですね。一話にして浅井は滅亡しました<大河
武藤舜秀 > 誠ですか?!もそっと長くなるのかと思いましたが(笑)
畠山義綱 > 展開が早いですよね。このままだと織田の滅亡もあっという間かも。やはり秀吉時代が長いんですかね。
武藤舜秀 > そうなのですか・・・
畠山義綱 > 近江は浅井三姉妹で盛り上がっていますが…こんなに短いのはショックでは…。
武藤舜秀 > しかし、あの大阪の丸善・ジュンク堂の書店は最高ですよ!
武藤舜秀 > そう言えば、ロケ地は滋賀県書いていなかった・・・
畠山義綱 > 武藤様がおっしゃっていた200万冊の在庫の本屋ですね。
畠山義綱 > え〜!ひどくないですか?地元無視も甚だしい。<ロケ地滋賀無し
畠山義綱 > そういえば、第1話のロケ地で荒砥城が使われていましたよ。
武藤舜秀 > 箱入りの本だらけ!
武藤舜秀 > ロケ地荒砥城ですか!
畠山義綱 > すごいですね〜。実際に手に取って眺められるのはサイコーです!
畠山義綱 > では、いよいよ室町将軍のお話をしましょうっか!
武藤舜秀 > そうしましょう。
畠山義綱 > まずは、14代足利義栄
武藤舜秀 > 義栄は京に入りましたか?
畠山義綱 > まずは状況として、13代将軍義輝が殺された後の後継者争いが手始めですね。
畠山義綱 > 義栄はたしか入京していないような…
武藤舜秀 > 義輝暗殺後数年は空位だったようですね
武藤舜秀 > 将軍就任に必要な献金が足りなかった為に義栄が将軍になれなかっただけですかね
畠山義綱 > そうですね。将軍になる前提の官位「左馬頭」がカギになると思います。
左馬頭義輝 > こんばんは。戻りました。
左馬頭義輝 > どの辺りでしょうか?
武藤舜秀 > こんばんは&明けましておめでとうございます>公方様
畠山義綱 > お帰りさない。まだ義輝の死後の任官争いのあたりです。
武藤舜秀 > 始まったばかりです>公方様
左馬頭義輝 > 明けましておめでとうございます。お久しゅうございます。>武藤様
左馬頭義輝 > 任官争いの辺り・・・では三人衆と弾正の争い付近ですか
畠山義綱 > 左馬頭に任官されたのは義秋の方が早い、しかし、その後で義栄も任官されて、結局義栄の方が早く将軍に任命される。これをどうみるべきか。
武藤舜秀 > そうですね。
左馬頭義輝 > 永禄8年はほとんど1ヶ月単位で動いてますからね
畠山義綱 > 畿内を支配していたのは松永ら義栄方の勢力。しかるに正当性は義秋という感じでしょうかね。
左馬頭義輝 > 義栄と義昭、スタートは非常に近かったんですけどね
畠山義綱 > まったく同時期ですよね<義栄・義昭
左馬頭義輝 > 結局、この時期のキーパーソンは阿波の篠原長房と思います
武藤舜秀 > 篠原長房とはかなりの大物だったようですね。
左馬頭義輝 > つまり、長房は阿波で比較的強力な政治力を発揮して三人衆や三好義継を仕切っていた
畠山義綱 > ぜひ詳しくお聞かせください<キーパーソンは阿波の篠原長房
左馬頭義輝 > 勿論弾正は大悪人として追討されるべき人物なので、義栄からの追討令の大義名分も立つ・・・
畠山義綱 > 信長の野望では全然重宝されていない人物なのに!詳しく知りたいです<篠原長房
畠山義綱 > (三好三人衆VS松永久秀)VS足利義昭という構図でしょうか?
左馬頭義輝 > この当時、長房は阿波守護細川真之や足利義冬を推戴していたので政治力は非常に強大でした
武藤舜秀 > 私も篠原長房は三好家の大黒柱とまでは聞いていましたがのぶやぼの評価が芳しくありません。
左馬頭義輝 > 対して義昭にはこの頃後ろ盾になる強力な大名がいません
左馬頭義輝 > その通り!篠原長房は後に分国法『新加制式』も制定するほどの優れた政治家なんです!>修理殿・武藤様
左馬頭義輝 > 更に、畿内での合戦では弾正をことごとく打ち破る優れた武将でもあります
畠山義綱 > 篠原長房は信長の野望武将風雲録では政治35、戦闘51.列伝も、信長の毛利攻めに参加くらししかないですね…
左馬頭義輝 > 歴代ののぶやぼでの長房の低評価は極めて不当なんですよっ!(笑)
畠山義綱 > おっ!篠原長房は信長の野望天道では政治74、統率54、知略71とステータスが上がっていますね。
武藤舜秀 > 義輝死後、篠原が台頭して三好三人衆や松永を抑えられることはな
左馬頭義輝 > おおっ!そうですか!やっと認められたようですね。でもまだ少し低いなぁ
畠山義綱 > 武将ファイルの長房の列伝「三好家臣。長慶・義賢のもとで内政に尽力した。義賢の死後はその子・長治の後見役となったが、讒言を受け、その長治から自害を強要された。」
武藤舜秀 > 三好家をまとめられなかったのでしょう?
左馬頭義輝 > 長房自身はあまり畿内へ渡ることなく、もっぱら阿波で采配を振るっていました
畠山義綱 > なるほど、三好家をまとめられなく、自害を強要されたことが低評価と言えるのですかね>武藤様
左馬頭義輝 > 三好の拠点はあくまでも阿波ですから、長房がいる間は三人衆も存分に活動できていたんだと思います
左馬頭義輝 > いえ、むしろ長房あっての三好だったと思います>修理殿
武藤舜秀 > 長房は近畿・四国の代表を代表する三好家ではなく阿波三好家としての采配をふるうことを優先していたのでしょうか?
武藤舜秀 > すると、長房は三人衆の後ろ盾ですか?>公方様
畠山義綱 > う〜ん、畿内の歴史に詳しいわけではないので何とも言えないのですが、三好というと、どうも畿内政権というより阿波の大名というイメージがありますね。>公方様・武藤様
左馬頭義輝 > そうだと思います>武藤様
左馬頭義輝 > 長房は有能な三好義賢の家臣でもあった為、何より阿波を重要視していました
畠山義綱 > 一時、三好三人衆の中で義継が久秀方に離反しませんでしたか?
武藤舜秀 > 今谷氏の「戦国三好一族」持っているのですが、かなり難しいです。
左馬頭義輝 > ただ、長房の最大の誤算は、三好義継の弾正への寝返りでしょう
畠山義綱 > とすると、どうも三好家の畿内の支配基盤がみえてきませんね…だからこそ阿波の勢力を頼りにしたのかな…
左馬頭義輝 > この義継の離反は、かなり長房のプランを狂わせてしまった感じがあります
左馬頭義輝 > それでもやはり長房の政治力は強かった
武藤舜秀 > 阿波は三好氏の本拠でもあり、最大の収入源でもあるので三好氏は阿波を手放したくはなかったようです。
左馬頭義輝 > 裏っ返せば、三好家当主を欠きながらも足利義栄を将軍に推挙できたわけですから
畠山義綱 > どういう経緯で長房が三好家の実力を得たかよくわからないのですが、大名の力が減退した三好家では長房の統率にも限界があったのかもしれません。
左馬頭義輝 > しかも京ではなく、摂津富田で。これ、足利義維のときと何だか似ていますね
畠山義綱 > 例えば、長慶の後継者となった三好義継が強力な長房の後ろ盾になっていたら、あるいは三好家の在り方もちがったのかもしれませんね。
左馬頭義輝 > 義維は結局将軍にはなれませんでしたが
武藤舜秀 > 篠原家は阿波の守護代っていうわけじゃなかったわけではないですよね?
左馬頭義輝 > 阿波の守護代は三好であり、篠原家はその代官に相当します>武藤様
畠山義綱 > 将軍宣下の儀式の折にも義栄は上洛することができず畠山安枕斎がこれを「見物」したらしいですね
左馬頭義輝 > この当時、義継はまだ若く血気盛んだったため、老獪な弾正の付け入る隙はいくらでもあったのではないかと
畠山義綱 > 三好家は当主を欠きながらも、義栄を将軍に推挙した。しかし、三好義継の久秀方への裏切りもあり、義栄方の勢力は甚だ心許なかったという結論でしょうか。
武藤舜秀 > そうでした。守護が細川氏ですよね(笑)
畠山義綱 > 細川真之でしたっけ<阿波守護
武藤舜秀 > 畠山安枕斎って誰ですか?安い枕って(笑)
畠山義綱 > 管領家か能登畠山家の庶流だと思われます。おそらく京都に近習していた者と
武藤舜秀 > http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/ashikaga_yoshihide.htm
武藤舜秀 > 畠山様がしっかり義栄のページ作っていらっしゃいましたね
畠山義綱 > はい。私はそのページを見ながらしゃべっています(笑)>武藤様
左馬頭義輝 > その流れだと思います>義栄方の勢力は甚だ心許なかった
畠山義綱 > では、義秋の流れを追ってみましょうか。
武藤舜秀 > 私はウィキペディア見てましたが、畠山様の方が詳しいです
左馬頭義輝 > 三好家は長慶の遺産もあり、河内和泉にはそれなりの力は持っていました。たとえば遊佐氏とか
左馬頭義輝 > しかし基本的に畿内は根無し草ですからねぇ。しっかりした基盤じゃありませんね
畠山義綱 > いえいえい。足利義量とか、足利義栄とか陽の目を浴びない武将が好きなんです(笑)>武藤様
左馬頭義輝 > その点、義昭が頼った朝倉、織田は基盤はしっかりしていましたね
畠山義綱 > そうなんです!畿内は複雑に権力が入り乱れているからこそ、基盤が育たないのかもしれませんね。それが『戦国三好一族』が理解できにくい一例かもしれません。
武藤舜秀 > ほんっと、機内は複雑で資料もまばらです
畠山義綱 > 1565(永禄8) 幕府 10月。亡命中の覚慶(足利義秋)の将軍擁立に対する支援表明書を畠山徳祐(義続)が送っています。
左馬頭義輝 > もっとも朝倉は当主自体が凄い戦争嫌いだったため、義昭も打つ手が無かったみたいです。義栄に出し抜かれたのは越前に居たときですし
畠山義綱 > 足利義材(義稙)の時も北陸に亡命しましたが、またもや義秋の支援勢力として、北陸に注目していたのでは?
左馬頭義輝 > そうそうそれです!>北陸に注目
武藤舜秀 > この義栄を支援する大名はすくなかったですが義秋支援の大名は多かった。この辺にもいかに三好氏や義栄に対する風の冷たさを感じます。
左馬頭義輝 > 覚慶は越前に赴く前後からひっきりなしに御教書を出していますが、そのほとんどが北陸大名なんです!
畠山義綱 > チャット討論会過去ログ義稙期で武藤様がこんな発言をしています「明応の政変 義稙派:畠山政長・尚順 清晃派:政元、畠山基家、赤松氏、若狭武田氏、土岐氏、伊勢氏、大内氏、古市氏」
武藤舜秀 > 義景は戦嫌いと言う訳ではなく、他国には興味が無かったような気がします。自国を守るために周辺に兵を出した。
畠山義綱 > 私もこんな発言をしていました「畿内に勢力の中心がある義澄と、北陸・中国に支援勢力が多い義稙。」
畠山義綱 > 義秋は最初若狭武田家に身を寄せませんでしたっけ?
左馬頭義輝 > そうですね。最初の流寓先は若狭武田氏でした。ただここは親子で内紛を演じていたため、全く当てにできないばかりかかえって危険だったし
畠山義綱 > 勢力で言うと、義栄<義昭 ですね。
武藤舜秀 > 武田家は応仁の乱で小国ながら東軍の主力として活躍しましたし、近いので頼りやすかったのでは?
畠山義綱 > 武田義統と武田元明の争いですね。
左馬頭義輝 > そうです!覚慶が当てにしていた勢力は、その気になれば畿内衆などは一蹴できたはずですね
畠山義綱 > 歴代の将軍は何かというと若狭武田を頼りにしています。小浜の湊があり金銭的にも潤っていたし、武藤様のご指摘通り距離的な利もありますね。
左馬頭義輝 > でも悲しいかな、彼らの国内事情はそれを許さなかったのでしょう
武藤舜秀 > 信豊と義統が争っていたのではなかったですか?>武田家
畠山義綱 > そういう意味で言えば、朝倉や若狭武田が早期に動いていたら、義栄の将軍宣下はなかったかもしれませんね。
武藤舜秀 > 元光と信豊ですね
畠山義綱 > 若狭武田では義統と父の信豊も争っていたましたが、それは弘治二年(一五五六)頃です。
畠山義綱 > http://wakasa.k-server.org/main/juseki03.html
畠山義綱 > ↓若狭武田氏に詳しいサイトです
武藤舜秀 > 朝倉と武田が結んでいても、若狭の国人がおとなしく従ったかどうかは分かりません。高浜の逸見、美浜の粟屋など、国人が反乱を起こしていますので
小姓 > 長続連殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > こんばんわ対馬守殿。お久しぶりです。
長続連 > 先ほど帰宅しました。よろしくお願いします。>皆様
武藤舜秀 > こんばんは>長様
畠山義綱 > 確かに実際動いたとしても、武田の状況では厳しいですね>武藤様
左馬頭義輝 > 仮に若狭衆、越前衆が覚慶を支援して入洛したとしても、かつての細川高国の再来になる可能性はありますね>朝倉と武田が結んで
左馬頭義輝 > 長様、こんばんは。お久しぶりです
畠山義綱 > ということは、精力的に見れば義栄<義秋 だけれども、実際に義秋は支援勢力が動かせず両者は均衡を保っていたと?
左馬頭義輝 > そういう観方ができると思います>支援勢力が動かせず
武藤舜秀 > 保っていたと言うよりもどちらも自分ところで精一杯だったと思います。余裕があったのは朝倉と織田だけですね
左馬頭義輝 > で、いよいよ織田の上洛作戦へと移っていくわけですが・・・
畠山義綱 > 京都の近く(摂津)にいた、また支援勢力が畿内にいた分、義栄陣営が一歩リードという状況?
畠山義綱 > 義栄政権の内容を論じて、義昭&信長に行きませんか?楽しみは伸ばしたい(笑)
左馬頭義輝 > 義栄は軍備さえ整えば後は上洛するだけと言う状況にありましたが、ここに織田が割って入った
左馬頭義輝 > 結局、織田の軍制が桁違いに強かったため、六角も三人衆もあっけなく駆逐されてしまったんですね
畠山義綱 > そもそも、義栄政権の支援勢力って誰なんでしょうかね?
武藤舜秀 > 三好三人衆では?>畠山様
畠山義綱 > やっぱり、それだけなんですね…。すごい脆弱な基盤。せっかく義秋に一歩リードしたのに…>武藤様
長続連 > 松永久秀の位置づけはどう理解できるのでしょう
武藤舜秀 > しかし、三人衆も、三好政康、三好長逸、岩成友通、どれも武人としては申し分はないのですが、政治家としては素人のような気がします
左馬頭義輝 > 義栄の最大の支援勢力は、推測ですが足利義冬とそのバックの阿波衆ではないかと思うのですが
畠山義綱 > そもそも、義栄が擁立されたのは、義維のせいですよね。さらに言えば義稙系と義澄系の血筋。
畠山義綱 > そもそも明応の政変がなければ、こんな義栄と義昭の対立もなかったかも。そもそも義輝の暗殺もなかったのかもなんて思ったり。
左馬頭義輝 > 『細川家の叡智』と言う書に、こんな記述があります>長様
長続連 > 私も義栄の支持基盤は旧三好政権を支えた阿波衆のイメージがありますね>義輝様
左馬頭義輝 > 松永久秀の行動は全てが一事が万事、己が欲望以外には何も持ちえていない・・・云々
畠山義綱 > 松永久秀は、三好三人衆と離れて、三好義継とくっついて、さらに勢力を高めるために畠山高政と根来衆と結ぶ。しかし、三好三人衆に敗れ一時行方不明。将軍継嗣争いを生んだのに、主体的に関われず>対馬守殿
左馬頭義輝 > そうなんですよね。結局明応の政変で足利家が分裂して、更に義晴の子同士が争う・・・
武藤舜秀 > 個人的には茶々丸も気になりますが
畠山義綱 > そう思うと、明応の政変はかなり室町幕府を弱体化させたんですね>公方様
畠山義綱 > 茶々丸?堀越公方ですか?今度ぜひやりましょう討論で!>武藤様
左馬頭義輝 > それが自分の意思、好むと好まざるとに関わらず押し進んでいったところに大きな悲劇がありますね>修理殿
長続連 > ありがとうございます>義輝様、義綱様
武藤舜秀 > そもそも茶々丸も将軍後継候補にされなかったのも引っかかるところ
左馬頭義輝 > 三好は畿内から撤収した後でも、後に野田・福島の戦いを演じられるほど力は持ちえていました>長様
武藤舜秀 > 兄が堀越公方で弟が将軍じゃあ兄の立場がない。。。
武藤舜秀 > 実際に三人衆の政治力ってあったのでしょうか?
畠山義綱 > 公方様の略年表によると「九月二十六日、足利義昭上洛。三好義継、松永久秀降伏。三好三人衆、畿内より敗走。篠原長房、足利義栄を阿波へ護送。」とあり、やはり政権基盤は阿波ですね。
左馬頭義輝 > でも篠原長房が謀殺された後、完全にその力を失いました。で、後は長曾香部に蹂躙されて終わり・・・
畠山義綱 > やはり、義栄の最大の支援者は篠原長房と見るべきですね。落ち目に助けてこそ最大の支援者。
長続連 > 政治力=自己の勢力維持能力、発展能力とするならば、その能力には疑問符がつきますね>武藤様
左馬頭義輝 > 堀越公方、古河公方、小弓御所・・・いいですね!あぁ関東へ行ってみたい!
畠山義綱 > 三好三人衆が畿内勢力を抑えきれないから、義栄政権が瓦解した、と考えれば明確な政権運営構想がある政治集団には見えませんね>武藤様
武藤舜秀 > この頃の長宗我部の動きをば。1567年一条氏から独立。68年本山氏滅亡。69年安芸氏滅亡
武藤舜秀 > やはり、自分たちの欲望のための政権なのでしょうね。>畠山様・長様
畠山義綱 > 堀越御所はちょっとしか発掘調査されず単なる空地。小弓御所は案内板もなく…。古河公方だけが唯一積極的に地元で取り上げられている感じです(泣)>公方様
武藤舜秀 > しかし、三人衆、3人とも同じ方向性を持っていたのかも疑問。若江三人衆の方がまとまっていたような。。。
畠山義綱 > それに同感です<3人とも同じ方向性! それにしても若江三人衆とは?>武藤様
長続連 > 三好三人衆が政権を維持できず、信長が政権を樹立できたのは、軍事力の差と共に政治力の差もあったのでしょうね
畠山義綱 > では義栄政権の脆弱性が明らかになったところで、いよいよ義昭ですね!
武藤舜秀 > 若江三人衆は池田丹後守教正、多羅尾右近、野間左橘兵衛(左吉)長前の3人なんですが、この3人本当に仲が良いのか主君も同じです
畠山義綱 > 三好の家臣はどうも不安定ですね。それも当主不在が原因ですかね…>武藤様
長続連 > 信長は義昭を担いだあと、我々が知っているような対立関係に至るまでは予想してたのでしょうかね。傀儡に甘んじると高をくって失敗したとか
左馬頭義輝 > 義昭政権は他の将軍政権と違って、いかにも単純明快な感じがします
武藤舜秀 > 若江三人衆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86
左馬頭義輝 > ほとんどが信長の事跡と被っているせいもありましょうが・・・
武藤舜秀 > 信長は最初からこうなると分かっていたはず。足利傀儡政権を何回も見ていたでしょうし
畠山義綱 > 武藤様ありがとうございます<若江三人衆
武藤舜秀 > 同じ三好にもう一つの三人衆
畠山義綱 > では、義昭の方はどうでしょう?信長との徹底的な対立は予想してなかった?
武藤舜秀 > 管領や副将軍就任固辞、堺などを直轄にしたことでいろいろ疑心暗鬼に陥っていったのは確かでしょうが。
畠山義綱 > 義昭は信長をどう評価し、自分の支援勢力として組み入れたのでしょうか?義栄が将軍になってしまった手前、支援してくれる強力な勢力ならだれでもよかった?
畠山義綱 > 管領や副将軍就任固辞、堺などを直轄って古文書に本当に出てくるんですか?>皆様
長続連 > なんか軍記物の逸話っぽい気もしますが。あるとしたら信長公記とかあたり?
左馬頭義輝 > これ、結構あやふやな点が多いんですよね。出展が『足利季世記』何ですが根拠が無いらしいです
武藤舜秀 > 信長公記には書かれています
長続連 > ありがとうございます>義輝様、武藤様
左馬頭義輝 > ただ、かつて細川晴元が堺だけは決して手放さなかったことから見ても、信長がその重要性は認識していたと思います
畠山義綱 > 「副将軍」というのが気になるんですよね。そのような役職が今までないので、これが事実としたら、それほど義昭はせっぱつまっていたんでしょうか。
武藤舜秀 > 久我、細川、和田が再三使いになったが、信長が副将軍もしくは管領の職を辞退して受けなかったので京では「世に珍しい信長公のなされよう」と、都でも地方でもみな感じ入った
畠山義綱 > 信長は堺の直轄地からも、義昭の利用価値を見出していますよね。一方、義昭にとっては諸刃の剣です。どこまで信長の危険性を認識していたのか。
左馬頭義輝 > 義昭は結構先読みするとか、結構情勢分析が冷静な面があるようなんです
左馬頭義輝 > 義昭としては何としても信長を幕府体制の一員に組み込んで、勝手をさせまいとしていたところがあります
長続連 > 副将軍は創作のような気もしますが。管領と副将軍の違いもわかりませんし。この辺りも徹底した史料批判が必要そうですな>義綱様
武藤舜秀 > ただ、直轄地云々は書かれていませんね。紋桐・引両筋を祝儀として送ったとあります
畠山義綱 > 1568年10月将軍就任、『殿中御掟』を信長に突きつけられるのが3ヶ月後。早すぎるような気がしますが…。
左馬頭義輝 > それが副将軍、管領への推挙だったと身供は思っています
武藤舜秀 > ただ、この当時で副将軍職があったと書かれていることは、義昭の思いつきでしょうか?
武藤舜秀 > 今のくだ首相と変わらない・・・
畠山義綱 > そうですよね。きっと信長に細川氏のような役割をになって幕府を存続させようとしているんだと思います。その意味では、義昭政権は以前の政権と連続していると思っていいのでしょうか?>皆様
左馬頭義輝 > 信長の軍事力を見ている以上、それは怖い。だから何とかして懐柔し名誉職でも何でもいいから幕府へ組み込もうとしたのかと
武藤舜秀 > 私は信長に細川氏のような役目を期待していたと思います。前管領の六角氏もいない訳ですし。
畠山義綱 > 義昭政権を、今までの歴代将軍の政権と連続性を多く見るか、異質性を多く見るかというのがキーポイントのようにも思っています。
左馬頭義輝 > 副将軍の職は実際はありませんが、かつて足利直義がそう呼ばれて絶大な権勢を振るっていましたし
長続連 > 義昭が信長を新管領家にして、新たな室町幕府の秩序を作ろうとしていたのは確かでしょうね
武藤舜秀 > 明らかに異質な物だと思います。まず、織田家自体守護でもないですし
左馬頭義輝 > 義昭の政権構想は、義輝のような幕府権威を持って大名を支配しようとしたのではないかと思いますね
畠山義綱 > 長殿や公方様の論だと連続性が多く見えますが、武藤様の論だと異質性が多く見えますね。もちろん見方によって変わってしまうんですが。
長続連 > 盛期の守護大名・奉公衆を基盤とした室町幕府のありかたと比較するならば、異質といえますね。
左馬頭義輝 > 義輝の政権運営については、細川藤孝や三淵藤英ら側近から容易に聞けたはずですし
畠山義綱 > 例えば、足利義昭は大名間調停外交や、偏諱を与える(細川昭元、畠山昭高)や、守護の補任(摂津守護の和田、河内守護・畠山・三好、大和守護・松永)など従来の政策をとっています。
長続連 > ただ盛期の室町幕府のありかたが崩壊した15世紀後半以降の室町幕府とは連続性があるといえます
左馬頭義輝 > 義輝は新興の出来大名であっても、幕府を支えきれる者であれば積極的に取り込もうとしていました
畠山義綱 > そうですよね。足利義政以降との政権では連続性の方が多い気もします。もちろん、異質なところも結構あるのですが。>対馬守殿
畠山義綱 > なるほど!確かに。上杉謙信なんてその最たる例ですね。その点で言えば義昭の信長に頼る姿勢は異質とは言えないかも!>公方様
武藤舜秀 > 政権運営は今までとは変わらないのですが、後ろ盾が織田家という守護でもなんでもない家が登場して美濃・尾張方面がぽっかり穴が空いたような感じになっていたでしょうね
畠山義綱 > 私は、公方様の御発言「義昭政権は他の将軍政権と違って、いかにも単純明快な感じがします」というところをもっと深く聞きたいのですが!>公方様
左馬頭義輝 > 義昭が結構冷徹と思えるのは、この時期、尾張には未だ斯波義銀が存在していました。しかしこれに全く眼もくれず織田を選んだ
武藤舜秀 > しかし、この時期斯波義銀は命の恩人である信長に反逆した罪で追放されていますね
畠山義綱 > 信長がかなり無視(扱いが粗末)を決め込んでいたので、それに反抗するにはかなりの勇気がいると…(笑)>公方様
長続連 > その辺、義昭も旧来の家格などに囚われない柔軟な思考力をもっていたと>義輝様
武藤舜秀 > 美濃の土岐もどこか行って在国すらしていなかったでしょうし。
畠山義綱 > それですそれです。私が言いたいのは<斯波>武藤様
左馬頭義輝 > 管領家の末裔である細川昭元には偏諱は与えましたが、その一方で信長に管領に相当する申し入れをしているし
畠山義綱 > ある意味矛盾した政策ですよね<偏諱と管領>公方様
武藤舜秀 > 細川もその昔傀儡していましたし、傀儡するほどの力もなかったですからね
武藤舜秀 > とりあえず偏諱は与えておこうか。
畠山義綱 > と言うと、義昭は信長の危険性はある程度認識していたが、幕府の再興のために新興勢力を抱き込むことを最優先にした。という感じでしょうか?
武藤舜秀 > だけど管領あーげない!
左馬頭義輝 > 結局力あるものは何でも自陣に取り込むと言う、義輝以来の方針を取ったのだと思います
畠山義綱 > ひでぇ〜(笑)<管領>武藤様
左馬頭義輝 > 義昭はもしかすると信長を三好長慶のような見方をしていたのかもしれませんね
畠山義綱 > というと、義昭政権は以前の政権と連続している、という結論ですね。しかし、織田側が違ったと。
武藤舜秀 > それもあるんでしょうが、三人衆と松永の駆逐優先したかったのに松永が降伏してきたものだから窮鼠猫を噛むで、降伏を許したのでしょうか?
武藤舜秀 > 信長は最初から室町幕府自体あまり気にも留めていない人だと思います
左馬頭義輝 > 長慶は8カ国!もの勢力を有しながら結局将軍家には逆らわなかった。そこに強大な権威があるから
畠山義綱 > 1569年の『殿中御掟』、1570年の『五箇条覚書』を義昭に承諾させた信長ですが、この時の両者の心情はいかに??
長続連 > 信長は義昭が傀儡に甘んじる性格だったら、天皇の名の下に統一を進めた秀吉のように義昭を担いで統一を進めるくらいの構想はあったのかも>義綱様
畠山義綱 > やはり、それは信長という人物が従来の価値観を打破するという、生き方の違いですよね。それを義昭に先読みしろというのはいささか酷かもしれませんね。
左馬頭義輝 > 自ら下克上を否定した長慶と、生きがいにした信長、そこに義昭が想像していた以上のものがあったのかと思いますね
畠山義綱 > 確かに。信長は邪魔するものには容赦ないですが、利用価値があるものには、そこそこ妥協しますし。>対馬守殿
左馬頭義輝 > 身供が単純明快と言ったのは、義昭にしてみれば将軍権威で認めてやれば、多少のいざこざはあっても自身に従うだろうといった考えがあったものと思います
左馬頭義輝 > ところがところが信長は全てにおいてこの時代を超越していましたね
畠山義綱 > なるほど。義輝公はそうは思ってはいませんでしたよね。三好相手に何度も戦争をして、しかも自らの権力基盤となる後ろ盾を着々と整備していました(信頼できる大名としての上杉や今川や能登畠山など)
長続連 > で義昭がダメだったので天皇を担いだと。信長と朝廷が対立していたか、どうかは本題からはずれるのでこの辺にしますが(笑)>義綱様
畠山義綱 > 結果、やはり信長の異質性が目立つというところなんですね…>公方様
武藤舜秀 > 今川は信頼できる大名でしたか?桶狭間が無ければ将軍に取って代わろうとしていたとも・・・?>畠山様
畠山義綱 > 足利一門ですからね…。確かに将軍相続で面倒になっていたかも…。
左馬頭義輝 > 義昭が信長の軍事力や考え方を恐れていたことは十分ありえますが、やはりそこは義昭の思考の遥か彼方に信長の思考があったといったところに悲劇があったのかもしれませんね
長続連 > 彼自身の性格はともかく、信長権力自体は他の戦国大名とあまり変わらないという見解もありますよね。信長という人を見るか、信長の政権構造を見るかでも違ってくるような
畠山義綱 > 朝廷は信長に将軍宣下すら考えていたようです<「関東打はたされ珍重候間、将軍になさるへきよし」(勧修寺晴豊)
長続連 > 桶狭間が上洛のためではなく、尾張への領土拡大を目的としたものだけだったという見解も近年あります>武藤様
武藤舜秀 > 信長は天才だとも言われますが、いろいろ試行錯誤を繰り返しながら実績を積み重ねていったという傾向ではないでしょうか。
武藤舜秀 > そのようにも言われますね。>長様
畠山義綱 > 今川氏真は義輝を積極的に頼っていたようです。領国が危なかったから。頼りになったかは別ですが。
左馬頭義輝 > 歴史にもしもは禁句ですが、身供は義輝がこの時期の信長と対峙したときどう対処したのか?とよく考えます。もしかすると信長は弾正と同じ行動を取ったかも・・・
武藤舜秀 > 氏真が義輝をですか?年代合いますか?
畠山義綱 > それは十分あり得ると思います。信長は発想が奇抜ですからね…>公方様
左馬頭義輝 > 本質的に信長と弾正は似たもの同士ですし。現実的か刹那的の違いはありますが(笑)
畠山義綱 > 義元が打たれたのが1560年。義輝暗殺が1565年なのでちょうど合います!>武藤様
長続連 > 信長は年齢のこともありますから、統一の暁にが短期間に将軍になって信忠に譲り、織田幕府を安定化させたあと、大御所という立場で大陸出兵。この辺りはあったかもしれまでんね>義綱公
畠山義綱 > あり得ますね。結局豊臣と同じ失敗で、徳川の天下ですね(笑)>対馬守殿
武藤舜秀 > いや、私はもっと酷いことをすると思いますよ。信長が京を離れる→三好が京を攻める→義輝を殺させる(殺す)→三好への批判集中し、三好攻めの大義名分が立つ
左馬頭義輝 > 今では、今川の西上戦は三河の完全掌握と尾張への牽制と見る向きが強いですね>長様
武藤舜秀 > ひょっとしたら鉄工船作って朝鮮出兵したかもしれませんね(笑)
畠山義綱 > まとめると、義昭は旧来の政権の枠組みを維持しようとしたが、その枠組みに捉われない信長の意図によって室町幕府は滅亡された…と見るべきでしょうか?
武藤舜秀 > もっと義元は評価されてもいいと思います。
長続連 > ありがとうございます。信長の副将軍の件にしろ、桶狭間の件にしろ、信長の野望と大河ドラマ史観は、やはり事実認識の点で問題を多く生みますね(笑)>義輝様
畠山義綱 > 私は今川氏真ももうちょっとでもいいから評価を上げたいです(笑)
武藤舜秀 > 私は氏真が品川に姓を変えたのがあまり評価できませんが。
畠山義綱 > 私は、今回ビックリしたことがあります。それはやはり「信長」はすごい人物なのだということです。それは常識に捉われないというか、だからこそ時代が動く。細かい点では色々あっても、やはり評価されるべき人物なんですね。
左馬頭義輝 > 義昭の拠って立つべき点は将軍権威を頂点とした幕府しかないわけですから、いかなる者もその枠組みに組み込まれなければならない。だが信長と言う異端児がそれを破壊した、といったところでしょうか
武藤舜秀 > 結論・やっぱり信長は凄かった(笑)
左馬頭義輝 > 特に最近の大河ドラマの史実無視の破綻した脚本は大問題と思いますよ>長様
長続連 > そうですね。義昭は義政以降の室町幕府のありかたを踏まえながら、室町幕府の体制挽回を図ろうとした。これに対し信長は当初、義昭を担いで勢力を拡大しようとしたが、義昭が信長の意図に従うような性格でなかったため信長は方針を変え、これを滅ぼしたと。>義綱様
畠山義綱 > それでも、本音(実力)と建前(地位)が違いますよね。そのような体系が生まれたのはやはり、応仁の乱からくらいなのですかね。それを実力も地位も一番になろうとした信長。
武藤舜秀 > 私も問題ありだと思います。今日とて、(大河ドラマで)浅井は朝倉と同盟を結んでいたとか言っていましたが、それは無かったようですし。
左馬頭義輝 > 結局信長も義昭が持つ権威の恐ろしさを認めたために、早い時期から掟書とか意見状とかを突きつけて、義昭の行動を未然に防ごうとしたんでしょう。お互いがお互いを恐れていたんだと思います
畠山義綱 > 信長が神になろうとしたというのは、本当なのでしょうか?そしたら、名目の支配者(神)を超えて、自分が支配者になろうとしたという信長の行動がわかる気がします。
長続連 > 大河ドラマも最新の研究とか反映させ、凝って作ればファンはつくでしょうにね。まあ労力と資金がかかるし、万人受けするかわからないから、製作者側はしたくないでしょうが(笑)>義輝様、武藤様
畠山義綱 > 確かにそうですね。義昭がきっかけで織田家と対立する大名家が増えたとも言えますし、何とか織田も自分の枠組みに入れようとおもっていたのかもしれませんね。
畠山義綱 > 昔に比べれば多少は進歩している気もします。それこそ昔は戦国の城であっても江戸の天守閣のような城に住んでいましたが、最近では山城がきちっと表現されています。
武藤舜秀 > 信長は神になろうとしていたのでしょうかね?それを望んでもいなかった徳川家康が神になっちゃいましたが。
畠山義綱 > 権現様ですね<家康>武藤様
武藤舜秀 > とりあえず、一年通して新説をふんだんに取り入れた大河を作って欲しいです>長様
左馬頭義輝 > 総見寺を見ると、確かに信長は自身を神と見立てた意識があったと思います。でもそれだと天皇の扱いは?にもなり何だかよく判りませんね
武藤舜秀 > そうです>畠山様
畠山義綱 > 確かに矛盾していますね<神と天皇の存在
長続連 > (続き)すいません。失敗しました。信長が神になろうとしたという典拠はフロイスの『日本史』だけなので、どうでしょうか。信長が冗談で俺を崇めろといったのに対し、フロイスがまじめにとっただけとか。なんせ国内史料に信長が自分を崇めろという法令が無いのですから、どこまで本気だったか
武藤舜秀 > いずれ安土城に天皇を迎える清涼殿でした?があって、それを上から見下ろして政治を使用としていたようです
畠山義綱 > そう考えると、結構一般に知られているはずの信長の情報ってあやふやが多いですよね。しかも戦国もののテレビ番組では、よくあやふやな情報を取り上げます。
武藤舜秀 > ただ、誕生日に領民から金を集めて安土城を見物させていましたが
武藤舜秀 > 私は信長研究に欠かせない「信長公記」すら信憑性を疑いつつあります
畠山義綱 > ほぼ観光名所のようですね<安土城見学
左馬頭義輝 > 何の出展だったか今わかりませんが、確か信長は総見寺に自分と見立てた石を毎日拝むようにと指令を出したと言われています。はっきりした資料ではないので真偽はわかりませんが本当なら大事ですよね。生きている自分を拝ませると言うのは
畠山義綱 > 軍紀物もどこまで信じて、どこを捨てるか…というところが悩みどころですよね。最近は古文書だけじゃなく、積極的に軍紀物の記述を使うような研究も盛んになってはいますね。
畠山義綱 > ではそろそろ、室町時代全体をまとめますか。そして次のお題さがし!
長続連 > 『信長公記』も信長没後、二、三十年後の史料ですからね>武藤様
左馬頭義輝 > ひえぇ・・・ここから室町期総括!頭のディスク何倍速で回したらいいか
武藤舜秀 > 信長公記は、美濃の太田牛一が、信長死後に豊臣秀吉に仕えてから書いた物で、信長の尾張時代もそうですが、かなり記憶を頼りとするところもあったと思います。ですので情報操作もあったと考えてもいいかと
武藤舜秀 > 室町時代全体の総括ですか?
畠山義綱 > さっき義昭期の総括をしちゃいましたので、またシリーズ最終章ということもありまして、まとめておいた方がいいかと…。
長続連 > 確かに難しいですね。過去のチャット内容とかを各人で読み、意見をまとめて、後日に付け足してもらうのはどうですか?
左馬頭義輝 > えー、今から思うままに書き連ねます。ちょっと会話から外れるかも知れませんがすみません
畠山義綱 > 時代を大観して室町時代で共通で言えることもあるかな〜と思ったのですが…
左馬頭義輝 > あら、どうしましょう?
武藤舜秀 > 私は、室町時代は天国と地獄の時代。京は花の御所をはじめ、北山文化、東山文化が花開き、他方政治が混乱し戦乱の世が収まるどころか収集つかなくなって戦国時代へ。
畠山義綱 > お!公方様やる気ですね。では私も。
左馬頭義輝 > では、室町時代について
武藤舜秀 > 私は簡単にまとめちゃいました(笑)
畠山義綱 > 平安・鎌倉時代から成熟しつつあった農業・商業などの経済システムが複雑化していった室町時代。あまりにも、制度が複雑化していき、制度やシステムが体系化されていったが、それに呼応するように硬直的になっていった(荘園制度や守護請など)。時代にそぐわなくなった室町幕府の支配体制。それを打破しようとしたのが、戦国大名であり、究極的には織田信長。 室町幕府は経済の発展に呼応して体系を変えるべきだった。
左馬頭義輝 > 前期幕府時代は権威と下克上が相克した時代。即ち武家が朝廷を下克上で圧倒したにもかかわらず自身は武家の権威で生き永らえようとした。そのため多くの矛盾を孕んだ出発となった尊氏・義詮期
長続連 > 鎌倉時代の朝廷と幕府が並存するありかたを統一して成立した室町幕府は、守護大名・奉公衆を基盤として成立した。このようなありかたは諸国の在地社会の勢力が強まり、各地で独自の権力を樹立しようとした戦国大名が登場する動きのなかで変容していった。各地で戦国大名という室町幕府から自立した権力が成立するなかで、16世紀の歴代将軍は戦国大名を基盤として幕府を維持しようとするが、室町幕府を否定して新たな権力の樹立を目指す信長によって滅亡した。
畠山義綱 > 日本史を大観すると、何にでも寿命があるように思います。平安時代は長く続きましたが、初期は天皇の政治、摂関政治、後半は武士のおこり。鎌倉幕府も、前半の源氏将軍と執権政治でわかれます。室町幕府も前半と後半で幕府のありようが違います。江戸時代も長く続きますが、綱吉の頃から幕府は慢性的な赤字財政で、政治改革をたくさん行います。大日本帝国憲法も寿命は60年ほど。それを考えると、日本国憲法も制定から60年以上。寿命なのかな?今の日本の閉塞状況…。
畠山義綱 > う〜ん!各人ともスルドイまとめかたをしますね。どれもうなづくものばかり!>オール
左馬頭義輝 > 発展期幕府時代は、武家の権威・権力が朝廷をも凌駕した時代。公家と武家の相互システムが完全に崩れ、半済制に代表される荘園崩壊、公家の衰退、守護体制確立によって武家の間でのパワーバランスが崩れていった義満・義持・義量・義教期
長続連 > アジアにおいては日本の一強を前提として作られてきた、日本の政治・経済システムを中国やアジア諸国が政治的・経済的に台頭するという事態を踏まえ、日本をそのなかでどう位置づけるか、ということは必要でしょうね。このままでは政治的に経済的にジリ貧ですから>義綱様
畠山義綱 > そうですよね。何でも日本が進んでいた時代は終焉しましたからね。これからは他国との共存共栄関係を築かないと。何でも日本だけで完結する時代ではないですし。>対馬守殿
左馬頭義輝 > 幕府動揺期。強大化しすぎた守護大名による領地獲得のための争乱頻発。武家の間での下克上が地方から進展。それまでの矛盾が一気に噴出し伝統的権威が侵食され惣領権(土地)を巡る争いが噴出。権威を殺がれた朝廷にも対処能力が無く争い自体の力学で大規模争乱勃発。体制の劣化が始まった義勝・義政・義尚期
武藤舜秀 > 私も以前に一部漏れた韓国との同盟も考えた方が良いと思うんですが。
畠山義綱 > 韓国との同盟は必要ですよね。米中韓にこのままだと埋もれてしまう…
長続連 > まあ周辺諸国側も自己の権力維持のためにナショナリズムを煽るような政策はやめてほしいですな。民主的で自由な関係をどう作るかも、アジア地域ではまだまだ民主主義や自由主義という思想面では未熟な国も多いし必要ですね>義綱様
左馬頭義輝 > 幕府衰退期。将軍権威が守護大名の恣意によって左右され、自身では何の決定も効かなくなっていった。その一方で硬直化した領国システムから脱却できない守護の淘汰が始まり、能力主義的下克上が進展した時代。流浪将軍を生み出した義稙・義澄期
畠山義綱 > 日本もそういうところもありますよね。某都知事とか…全然某になってない<ナショナリズム
畠山義綱 > しかし、一番の団結は仮想敵国を作ることで生まれますからね…<ナショナリズム
武藤舜秀 > 某府知事もいますよ(笑)
畠山義綱 > アハハ(笑)日本も同じですね…<府知事>武藤様
左馬頭義輝 > 幕府中興期。敢えてそう呼びます!将軍権威の回復を図るため、自ら戦国大名のような行動を取った将軍家の現出。知行制の発展に伴い領国システムが完全に転換。著しい皇室・公家の窮乏。戦国大名間の争乱調停、国人への直接所領安堵を図り権威復活。戦国将軍による武家復活を体現した義晴・義輝期
長続連 > 月並みですが、仮想敵国を作らずに人間をまとめる方法をどう考えていくかということが必要になっていくでしょうね。地球を圧迫する、かといって地球を滅ぼすほどの力もない、宇宙人が近くにいたら直ぐに解決か(笑)
武藤舜秀 > 日本の仮想敵国と言えば北朝鮮ですか。
畠山義綱 > そうです!地球連邦の成立。しかし、宇宙人が強かったら地球は植民地に。そしてレジスタンス活動…。宇宙人が弱かったら植民地化を推し進める地球全体が帝国主義に…。地球的に見ては解決ですが、宇宙的にみるとまた不安定になりますね(苦笑)>対馬守殿
畠山義綱 > 現在はそうなりますかね…。一方で尖閣諸島などを考えると中国とも言えますが…>武藤様
武藤舜秀 > 中国を仮想敵国にするのなら核兵器いるので北朝鮮でいいかと・・・
左馬頭義輝 > 幕府崩壊期。将軍義輝の討死に接し、大名での将軍権威軽視の風潮進展。権威自体は大きいものの幕府の存立自体が極めて困難。織田信長の登場により幕府を含めた既成概念破壊。新時代への架橋となった義栄・義昭期
左馬頭義輝 > おわりー!
長続連 > お疲れ様でしたー。>義輝様
左馬頭義輝 > 何だか面白い話題で盛り上がっていますね。身供が加わると紛糾するかも(笑)
武藤舜秀 > おつかれさまです>公方様
武藤舜秀 > 紛糾は困ります(泣)
畠山義綱 > お疲れ様です〜!!>公方様
長続連 > 室町幕府の話題から現代の国際情勢、国内政治、地球連邦の是非まで、壮大なスケールで話が拡大してます(笑)>義輝様
武藤舜秀 > 先日、mixiで韓国との同盟をするなら謝罪問題など問題を解決しなくちゃ行けないなんて発言したら、友人がマジレスしてきて困りました(泣)
畠山義綱 > 「歴史なんて学んでも意味あるの?」という中学生がいますが、歴史を見ると、世界がわかりますし、未来がわかります。誠に楽しい勉強です(笑)
左馬頭義輝 > 時代を眺めると、近世も含めて全て土地土地土地なんですよね。これをどこがどう保障するのか、それだけと言っても過言ではないようです
畠山義綱 > まだまだ国家間にはわだかまりがありますね…>武藤様
畠山義綱 > ではでは!公方様のまとめで、室町将軍シリーズは終焉ということで!シリーズ完結(感動)
畠山義綱 > こんなにチャット討論会が長く続くと思いませんでした(笑)
長続連 > 次のチャットの話題は、これからの日本の課題にしますか(笑)。本当にどうしましょうかね。
左馬頭義輝 > 途中からなんですが、今はどの国家も劣化が進行しているように思います。果たしてどこが抜け出せるのか・・・
武藤舜秀 > 中国でもそうですが、日本を敵国とするよな教育していたら、そら国民がいやがるに決まってるだろと。
左馬頭義輝 > いやぁー楽しかった!!
長続連 > 室町時代の文化の発展と地方への波及とかでもいいかも
左馬頭義輝 > 次ですねぇ。題材はいくらでもありそうなんですが、マイナーで行くかメジャーで行くか
畠山義綱 > 古河公方や堀越公方なんて案もありましたが、一度将軍家を離れて室町時代を違う側面からみたいです<個人的に
武藤舜秀 > 近衛ってマイナーですね
長続連 > 文化ならば、禅や一向宗など宗教も含められるし面白いかなあと
左馬頭義輝 > 室町期は惣の発展とか土民の興隆とか宗教とか、色々あって楽しいんですが時代区分が複雑でなかなか難しいですね
畠山義綱 > 分国法を1つ1つ取り上げていくとか…。六角式目とか…
武藤舜秀 > 上沢様が入ろうか迷っておられます(笑)
左馬頭義輝 > おおおっ!難し面白そう!>分国法
武藤舜秀 > 分国法なら味舌様を特別講師にお迎えしましょう(笑)
長続連 > 分国法でもいいですが、戦国大名の分国法が収録されたテキストとして岩波書店の日本思想大系『中世政治社会思想・下』辺りを各自でもっておいたほうがよいかもしれません。
武藤舜秀 > どこかに六角式目をまとめた物のコピーがあったような・・・
左馬頭義輝 > 守護大名から戦国大名に飛躍した大名家を都度いくつかピックアップして討論してみてもいいかもしれませんね。何で転換できたのか、出来なかった大名家はなぜなのか等々
畠山義綱 > 一度分国を取り上げているのですが、各家の条文を深く読んでいっても面白いかな…と。
長続連 > すいません。訂正。『中世政治社会思想』の上でした。
畠山義綱 > ぜひご入室ください>上沢様
武藤舜秀 > それも面白いですね。>公方様
畠山義綱 > 他のテーマでは…城郭?
左馬頭義輝 > 勿論、能登畠山氏などは完全に範疇に入りますね。あと六角氏と京極氏の対比なんかも
武藤舜秀 > 城郭もいいですね。
畠山義綱 > 公方様!恐縮です<勿論、能登畠山氏などは完全に範疇に入りますね
武藤舜秀 > 戦国の人の生活について
長続連 > 城郭は地域や時代を限定した方がいいかもしれませんね
左馬頭義輝 > 中世城郭ですか。観音寺城本丸でオフ会でもしてみましょうか!
武藤舜秀 > 賛成です!>公方様
畠山義綱 > 朝倉氏はどうですか?文化面でも、中世城館(一乗谷)でも、飛躍した大名面でも範疇に入ります。
長続連 > 観音寺城オフ会は夏以外で。前に夏にいって死にかけました(笑)
武藤舜秀 > 小谷城は今年は人が多いでしょう
畠山義綱 > 今年こそ、室町将軍シリーズ完結記念でオフ会を(笑)場所はやっぱり京都?
武藤舜秀 > 秋口が井伊でしょう
左馬頭義輝 > 京でしょう!
畠山義綱 > 完全に山登りですからね<観音寺城>対馬守殿
武藤舜秀 > 京都・・・なにか特別展示でもあれば燃える物もありましょうが。
畠山義綱 > リアルに今度ケイタイのアドレスを交換して8月あたりでも京都オフでもやりませんか?
武藤舜秀 > 中腹まで車で行けます。>観音寺城
武藤舜秀 > 時期は大丈夫ですか?>畠山様
畠山義綱 > う〜ん7月の終わりの週末がいいかも(苦笑)>武藤様
左馬頭義輝 > 題材はやはり皆様共通の知識を元にピックアップした方がよいかと
長続連 > 京都オフは良いですね。私のアドレスは能登へ行った時と同じです>義綱様
畠山義綱 > そうですね〜。とするとやっぱりもっと大きなテーマの方がいいやもしれませんね。
畠山義綱 > 了解です>対馬守殿
武藤舜秀 > 中世のところでは、足利義尚陣没の地・鈎も通りますよ
長続連 > 分国法でもよいと思いますが、戦国法を扱った新書なり、共通の本を決めて、読んでその内容について話合うのが良いかなとも
武藤舜秀 > あと、浅井と六角の激戦地、野良田や、水攻めがあった肥田城にも案内できるかと
畠山義綱 > 大名たちの権力基盤!ってどうですか?経済基盤や政治基盤を含めて、室町幕府の権力構造と比較するのは?
武藤舜秀 > 大名達の経済基盤に興味あります
左馬頭義輝 > 室町期であれば、やはりその存立基盤が何だったのかなど・・・
左馬頭義輝 > おわっ!かぶった!?
武藤舜秀 > おかげで「日本産業史大系」と言う本購入しましたが難しいです
畠山義綱 > そうすれば、各々の得意の大名を調べて発言できませんか?
武藤舜秀 > それでは、やはり京都へ行って「座」を調べるとか・・・
長続連 > 私は権力基盤でよいです>義綱様、義輝様
左馬頭義輝 > 室町期は将軍を頂点としてますが、大名たちの領国経営が千差万別でなかなか面白いと思います
畠山義綱 > おっ!みなさん乗り気なので、テーマは決定でいいですか?オフは京都に決定で、時期は7月下旬でもOKでしょうか?
長続連 > 異議なしです。京都オフを七月になるなら、宿の確保は早めにしたほうがよいかと
武藤舜秀 > 時期はそれでOKです。畠山様は米原で乗りますか?
左馬頭義輝 > テーマOKです。
畠山義綱 > テーマ決定「室町時代の大名の権力・経済基盤」
畠山義綱 > 次のチャットはオフ会次第ですが、2011年夏か、2012年正月ですね。
左馬頭義輝 > 次回討論会、分国法も絡んでくると思いますのでかなり複雑かつ楽しくなりそうです!
畠山義綱 > そうですね。。大名家の権力基盤となれば、当然のごとく分国法も絡んできますね。
畠山義綱 > ある程度、大名家を見当つけていくと話が弾むかもしれませんね。
左馬頭義輝 > 同じ分国法でも、秀逸なものもあれば、んー?ってものもありますし
武藤舜秀 > 近畿故、三好や、六角、将軍家の話題が多いのかもしれませんが
長続連 > 遅れてきて何ですが、明日(今日?)も遠出しなくてはなりませんので、退出します。またオフ会の件もつめましょう。失礼します。>皆様
武藤舜秀 > お疲れ様です>長様
畠山義綱 > 了解です。ではそろそろ皆様落ちましょう。
左馬頭義輝 > では、初回は六角氏と京極氏との対比とか
小姓 > 長続連殿が退室なされましたぞ。
畠山義綱 > 気付けは討論も4時間超(驚)
武藤舜秀 > いろんなお城が行ける!ムフフ・・・
左馬頭義輝 > どうもご苦労様でした>長対馬守様
畠山義綱 > ある程度、見当をつけてそれを共通の土台にして、あとは自分の得意な大名で論を補強して討論すればよいかと。
武藤舜秀 > よく耐えましたね
武藤舜秀 > 私も眠いのでそろそろ落ちますね。また、近くなり次第メールください
左馬頭義輝 > 4時間超とは、記憶が正しければ最長不倒時間では?
武藤舜秀 > おやすみなさい。お疲れ様でした!
畠山義綱 > 朝型人間なので、完全にもう眠いです(笑)いつもはだいたい夜10時には寝てるので(笑)>武藤様
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。
左馬頭義輝 > それでよろしいかと>修理殿
畠山義綱 > 了解です。それでは、公方様も武藤様も本日はありがとうございました。これにてチャット討論会は閉会といたします。
左馬頭義輝 > では身供もこれにて失礼いたします。どうもご苦労様でした
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。


−これにて終了−


☆参考資料(公方様がチャット討論会に先立って用意して下さった資料)

キーワード
天下布武

キーパーソン筆頭
織田信長

キーパーソン他
松永久秀 三好義継 武田晴信 朝倉義景 浅井長政
細川藤孝 六角義賢 明智光秀 篠原長房 羽柴秀吉

足利義栄〔初名・義親 義勝 のち義栄〕
天文七年〔一五三八〕− 永禄十一年〔一五六八〕
父:足利義冬
母:大内義興の娘
将軍在位:永禄十一年〔一五六八〕二月−九月


足利義昭〔初名・覚慶 のち義秋 義昭 昌山道休〕
天文六年〔一五三七〕− 慶長二年〔一五九七〕
父:足利義晴
母:近衛尚道の娘〔慶寿院〕
将軍在位:永禄十一年〔一五六八〕− 天正十六年〔一五八八〕

和暦 西暦 出来事
大永三年 一五二三 四月七日、足利義稙、阿波・撫養で死去。
天文三年 一五三四 足利義冬、阿波守護・細川持隆を頼り堺より阿波へ帰国〔平島公方〕
天文六年 一五三七 十一月三日、一乗院覚慶〔足利義秋〕、京で誕生。
天文七年 一五三八 足利義親、阿波平島館で誕生。
天文二十二年 一五五三 六月、細川持隆、三好実休により暗殺。阿波細川家没落。
弘治元年 一五五五 足利義冬・義親父子、周防へ出奔。
永禄四年 一五六一 十河一存死去。
永禄五年 一五六二 三好実休戦死。
永禄六年 一五六三 六月、前管領細川晴元死去。八月、三好義興謀殺。
永禄七年 一五六四 五月、安宅冬康謀殺。七月、三好長慶死去。
永禄八年 一五六五 松永久秀、周防の足利義維・義親父子を阿波へ呼び戻す。
五月一九日、足利義輝討死。一乗院覚慶、興福寺に幽閉。
七月、覚慶、細川藤孝らと甲賀へ脱出。
八月、覚慶、上杉輝虎へ上洛催促の書状を送る。
九月、三好三人衆と松永久秀、対立激化。足利義親、久秀討伐の御教書を発行。
十一月、覚慶ら近江矢島に移る。
永禄九年 一五六六 二月、覚慶、還俗して足利義秋と改名。越後・長尾顕景〔上杉景勝〕へ御内書を送る。
四月、足利義昭、従五位下・左馬頭叙任。
二月〜五月、三好三人衆、摂・河・泉で松永久秀に大勝。両者和睦。
六月、和睦破綻。篠原長房、足利義親を戴き摂津・兵庫へ上陸。
七月〜八月、越水城合戦。篠原長房、松永勢を撃破。松永久秀降伏。
八月、足利義昭・細川藤孝・一色藤長ら若狭へ移動。
九月、足利義昭一行、朝倉家を頼り越前へ下向。
十二月、足利義親、摂津富田の普門寺へ入る。
十二月二十八日、足利義親、義栄と改名。従五位下・左馬頭叙任。
永禄十年 一五六七 二月、三好義継、松永久秀方へ寝返る。
四月、三好三人衆と松永久秀、大和で合戦。
十月十日、松永久秀、東大寺を焼討ち。三好三人衆敗走。
永禄十一年 一五六八 二月八日、足利義栄、三好三人衆の推挙により摂津富田・普門寺で第十四代将軍就任。
四月十五日、足利義秋、義昭と改名。
七月、足利義昭、織田信長を頼り美濃へ下向。
九月、織田信長、足利義昭を推戴し岐阜を進発。近江六角氏を駆逐。
九月二十六日、足利義昭上洛。三好義継、松永久秀降伏。三好三人衆、畿内より敗走。篠原長房、足利義栄を阿波へ護送。
十月八日、足利義栄、阿波・撫養で死去。享年三十一歳。
十月十八日、足利義昭、織田信長の秦請により第十五代将軍就任。
十月二十六日、織田信長、岐阜へ帰国。
永禄十二年 一五六九 一月四日、三好三人衆、足利義昭を本圀寺に襲う。
一月十四日、織田信長、『殿中御掟』を義昭に承諾させる。
二月、織田信長、二条城を建設。四月、義昭、二条城へ移住。
三月、足利義昭妹、信長の媒酌で三好義継と婚儀。
十月、この頃から足利義昭・織田信長、不和を生じる。
永禄十三年 一五七〇 一月二十三日、織田信長、『五箇条覚書』を義昭に承諾させる。
元亀元年 四月、織田信長、若狭へ出陣。越前・金ヶ崎城攻略。
四月二十八日、浅井長政、信長を攻撃。織田信長、金ヶ崎撤退。
六月二十八日、姉川合戦。朝倉・浅井連合敗走。
八月、野田・福島合戦。足利義昭、海老江に出陣。石山合戦開始。
十月〜十二月、滋賀の陣。織田信長、綸旨の秦請で江南から撤収。
元亀二年 一五七一 五月、松永久秀、大和信貴山城で信長に謀反。
五月、織田信長、伊勢長島の一向一揆を殲滅。
九月、織田信長、比叡山を焼討ち。
元亀三年 一五七二 四月、三好義継、河内若江城で信長に謀反。
八月、織田信長、江北へ出陣。
十月、武田晴信、足利義昭の奏請により甲斐を進発。上洛開始。信長包囲網の完成。
元亀四年 一五七三 一月、武田晴信、三河野田城を攻略。
二月、織田信長、足利義昭に対し『十七ヶ条の意見状』を強請。足利義昭、二条城で挙兵。
三月二十五日、織田信長上洛。足利義昭、和議の詔勅を秦請。四月七日、足利義昭・織田信長和睦。
四月十二日、武田晴信、信濃で陣没。
五月、阿波の篠原長房、三好長治により謀殺。阿波三好家崩壊。
七月四日、足利義昭、宇治槇島城で挙兵。
七月十六日、織田信長、槇島城を攻撃。織田信長、義昭嫡男・義尊を人質に取り義昭を追放。足利幕府滅亡。
七月十八日、河内若江城主・三好義継、足利義昭を保護。
天正元年 八月、織田信長、江北・越前進攻。朝倉義景、浅井長政滅亡。
十月、足利義昭、河内若江城から和泉堺へ脱出。吉川元春へ御教書を送る。
十月八日 足利義維死去
十一月十六日、河内若江城陥落。三好義継自刃。
十二月二十六日、松永久秀、信長に降伏。
天正二年 一五七四 二月、織田信長、石山本願寺を包囲。
三月、足利義昭、徳川家康へ御教書を送る。
四月、足利義昭、堺から紀伊へ下向。島津義久へ御教書を送る。
天正三年 一五七五 織田信長、各地の合戦で敵を撃滅〔三月、高屋城攻略戦。五月、長篠合戦。八月、越前一向一揆殲滅戦。十一月、美濃岩村城攻略戦〕
天正四年 一五七六 七月二十五日、第一次木津川口合戦。毛利水軍、織田勢を撃破。
天正五年 一五七七 足利義昭、毛利輝元を頼り紀伊より下向。備後・鞆の津に逗留。
九月十三日、手取川合戦。織田勢大敗。
松永久秀、大和信貴山城で再び信長に謀反。
天正六年 一五七八 三月十三日、上杉輝虎死去。
十月十日、松永久秀、大和信貴山城で爆死。
十一月六日、第二次木津川口合戦。織田勢、毛利水軍を撃破。
四月九日、石山本願寺、勅令により開城。八月、石山合戦終結。
天正八年 一五八〇 三月、織田信忠、甲斐侵攻。武田勝頼滅亡。
天正十年 一五八二 六月二日、本能寺の変。織田信長・信忠父子横死。
六月、山崎合戦。羽柴秀吉、明智光秀を滅ぼす。
天正十一年 一五八三 四月、賎ヶ岳合戦。羽柴秀吉、実権を握る。
天正十五年 一五八七 足利義昭、豊臣秀吉に恭順の意を示す。秀吉の九州遠において島津義久に対し降伏勧告。
九月、足利義昭嫡男・義尊、得度して義尋と号し一乗院門主となる。
天正十六年 一五八八 一月、足利義昭出家。昌山道休と号し、伊予一万石を秀吉より付与。
天正十八年 一五九〇 小田原遠征。
天正十九年 一五九一 奥州仕置。豊臣秀吉、天下統一。
文禄元年 一九九二 四月、文禄の役勃発。
慶長二年 一五九七 二月、慶長の役勃発。
八月二十六日、足利昌山、備後・鞆の津で死去(享年六十一歳)。

以上


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