定例チャット第十回討論会、過去ログ13
「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」

平成廿年睦月四日金曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、長信氏様、宿禰守様、長続連様、公方様、畠山義綱)


畠山義綱 > 定時となりましたので、定例チャット討論会テーマ「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」を開催いたします。
武藤舜秀 > なんか、21時から戦国ものテレビがあるようですね。
畠山義綱 > 今確認したところ、「天下統一!三武将スペシャル 信長・秀吉・家康〜真のリーダーは誰か!?〜」ですって。
畠山義綱 > 本当にテレビは、信長・秀吉・家康ばかりですね…。日本人のメジャー思考にも困ったものです<テレビ番組
武藤舜秀 > まあ、仕方ないでしょうね・・・歴史物やるだけでもましでしょう。
小姓 > 長信氏殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 今日は、2冊本を買ってきました。『満州国皇帝の秘録』と『中世瀬戸内の港町 草土千軒遺跡』というものです。
畠山義綱 > こんばんわ。>長信氏様
長信氏 > お言葉にあまえてよろしくお願いします。
武藤舜秀 > 長様、こんばんは。
武藤舜秀 > やはり、「戦国越中を行く」もいいですよ
畠山義綱 > 仁岸家の資料を発見したそうで!すごいですね。室町・戦国の仁岸氏のことも載っていますかね?もし、載っていましたら報告頂ければ大変参考になります!>長信氏様
小姓 > 宿禰守殿が入室なされましたぞ。
小姓 > 長続連殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 私も、史学ではないので、素人でございます。みなさんで楽しくチャットしましょう!>長信氏様
長続連 > こんばんは。
畠山義綱 > こんばんわ!>宿禰守様、長対馬守様
武藤舜秀 > こんばんは>続連様、宿禰守様
畠山義綱 > 「戦国越中を行く」はどんな内容でしょうか?>武藤様
長続連 > よろしくお願いします〉皆様
長信氏 > よろしくお願いします
武藤舜秀 > そうですね、佐々成政が多いですが、椎名氏や、神保氏のことも書かれていますよ。
畠山義綱 > 本日は「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」という討論テーマで議論をしていきたいと思います。
宿禰守 > とりあえず、東四柳史明氏の「戦国期畠山氏と一宮気多社の造営」見ながら書き込みます
畠山義綱 > なにぃ!そんな本を見逃していたなんて…(泣)>武藤様
畠山義綱 > 私もそれ持っております。義綱の気多社造営のことも書かれていますね。>宿禰守様
宿禰守 > さすが、もってますか。その通りです。
武藤舜秀 > まあ、畠山氏の記述は少ないですから、どうでしょうか。
畠山義綱 > テーマに沿っていくと、まずは足利義勝ですが・・・あまり語るものも多くない将軍ですね。義教亡き後どのような治世をしたのでしょうか…。
武藤舜秀 > 義勝・・・9歳で将軍に就任し、10歳で没。
宿禰守 > 治世っていっても、辞書にもないし。
武藤舜秀 > おそらく、この一行で終わってしまうほど業績といえるようなものはないでしょう。
長続連 > まあ諸大名の合議というのが実際でしょうが、子供でも将軍が務まるというのは、単に将軍の地位が形骸化しただけではなく、将軍の地位が権威が確立したためでしょうかね。
宿禰守 > でしょうね
長信氏 > すみません。一時撤退します。少し後に参陣するのでおねがいします。
畠山義綱 > 幼少ゆえ実権はもちろんありませんね。管領である細川持之が実権を持ち、その死後は山名持豊が実権を握る。やったことは赤松満祐の討伐くらい。赤痢で病死とあります。
畠山義綱 > お待ちしております!>長信氏様
武藤舜秀 > おそらく、畠山持国や、細川持之あたりが執政したのではないでしょうか?
畠山義綱 > そうですね。この辺りの将軍から、将軍個人の力量よりも、周りの勢力がどう動き幕府を動かしたのかということが重要になってきますね>長続連様
長続連 > 私の問題か関心からは、実権がない将軍をいだかざるを得ない、守護大名権力の「弱さ」は興味深いです
畠山義綱 > 将軍の地位と権威は本当に確立したのでしょうか?鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍も幼少で継承していますが、権威はあったのでしょうか?>対馬守様
宿禰守 > このころから、守護大名は戦国大名に変貌ですか?
畠山義綱 > 確かに。江戸幕府のような幕府が巨大な権力を持っていれば、大名や幕閣たちが擁立し、その権威を利用するのもわかりますが、なぜ室町幕府のような脆弱な権威を利用したのでしょうかね…>対馬守様
畠山義綱 > 戦国大名を定義するのは難しいですが、一般的には(中学・高校の教科書)には、応仁の乱をきっかけに戦国大名が登場するといいますね>宿禰守様
武藤舜秀 > わかりませんが、細川、畠山、山名などの諸氏が示し合わせて将軍が15歳になった折りに政権参与していただくとか・・
長続連 > 個人の能力云々でなく、血統ゆえに幼児でも将軍となるというのは実権はともかく室町幕府という体制が「体制的」には安定している証拠と思います。鎌倉幕府の将軍は御家人の主君という権威は滅亡まで継承されたようです。
武藤舜秀 > 一般的には戦国時代は応仁の乱の1467年ですが、私は拡大解釈して、嘉吉の乱からもう戦国時代に入ったと思っています。
畠山義綱 > 確かに将軍が元服できる年齢(15歳くらい?)になれば、政治に参与できますよね。足利義政も政治活動がみられるようですし>武藤様
長続連 > まあ、弱小な幕府すら、担がなくてはいけないところに、守護大名の在地における弱さが表れているかと
畠山義綱 > 1441年の嘉吉の乱から戦国時代と見る方はやはり多いですよね。将軍権力が弱体化しているわけですし。>武藤様
武藤舜秀 > そうでなければ、鎌倉の二の舞になるということくらいはわかっていたと思いますし。
武藤舜秀 > 多いですか>嘉吉の乱から戦国時代
畠山義綱 > 確かに鎌倉幕府の将軍は、結局は最後まで存在したわけですからね。権威があったわけですよね>対馬守様
長続連 > 日本の時代史とかの概説書とかもそうしてますね。>嘉吉の乱から戦国時代
長続連 > そこに得宗専制の限界があったとはいいますね。>殿
武藤舜秀 > そうなんですか、一般化されているのは驚きましたね。うーん、これは昔からの持論なんで良かったです(笑)
畠山義綱 > だいたい、大きくみて、戦国時代の区分は、(1)1441年(嘉吉の乱)、(2)1467年(応仁の乱)、(3)1493年(北条早雲の伊豆討ち入り)などの説もあります。無論そのほかの論もありますが。>武藤様
宿禰守 > 源平の尊き血統は、戦国武士の世襲カリスマ性の継承とか、まだ武力よりも権威の方が?
畠山義綱 > 確かに、大名にとっても武力で解決するより、将軍の権威を利用して実権を握る方が、旧勢力も味方にできて都合も良いように見えますね>宿禰守様
武藤舜秀 > (1)は将軍が暗殺されたという意味での下克上到来。(2)はこの乱をきっかけに戦乱が全国へ飛び火したという考え方。(3)はこの時代に下克上が始まったという考え方でしょうか。
長続連 > 南北朝までは、血統のカリスマは強かったみたいですね。得宗家も、後醍醐方にその低さを吹聴されてますし、将軍になれなかったのは血統の問題がよくいわれますね>宿禰守様
畠山義綱 > 長続連様がおっしゃったように「守護大名の在地における弱さ」の守護大名が、だんだんと荘園を押領していき、自らの領国化していくところに戦国大名との差があるわけですが。
宿禰守 > もともと、在地の荘園武士も守護大名の権威を笠にかぶっただけだった?
畠山義綱 > そうですね。時代をカンペキに区切ることは難しいので、あまり問題を単純化するのもどうかとおもうのですが、いずれの事件も日本をゆるがすようなショッキングな事件ですからね。戦国時代の到来というにはぴったり当てはまる気もしますね>武藤様
長続連 > (1)は同期の関東でも鎌倉公方が関東管領に殺されたり、九州探題の権力が低下したことも理由にあるそうです。
長続連 > 荘園の武士は荘園領主や有力神社や寺院の権威も駆使したようです
武藤舜秀 > それと同じように、戦国時代に終焉もいろいろな解釈されていますよね。
畠山義綱 > 全体的に義教が亡くなって以降、中央権力(幕府)の衰退が起こり、各地域で中央権力の統制がとりにくくなっているという印象はありますが>対馬守様
宿禰守 > その時歴史は動いたともいます。エッポックメイキングは、歴史の止揚としして評価できるのではと。その衝撃が全国に走った。
長続連 > そのような理由から義教の死後が画期と評価されるみたいですね>義綱公
宿禰守 > そう、寺社の権威を追認することが、在地の経営安定に重要だった
畠山義綱 > エポックメイキング…そうですね。特に「嘉吉の乱」は全国にとって衝撃の事実だったことでしょう。ただ、衝撃がずっと続けば人間は心が麻痺してきます。ある意味室町時代は、その後も衝撃的な事件が多すぎて麻痺してしまったような気もしますね>宿禰守様
長続連 > 義綱が一宮造営したのも同様な理由でしょうね〉宿禰守様
宿禰守 > しかりです
畠山義綱 > やはり、巨大な寺社勢力はそれだけの多額な資金源にもなります。味方にしないと、不都合が生じるわけでしょう>宿禰守様
武藤舜秀 > でも、義教の恐怖政治と織田信長の死はかなりリンクしていますよ。天下を恐怖に陥れたと言うことは暗殺されることで評価される場合がありますよ
長続連 > 嘉吉の乱に画期を認めるとしたら、室町幕府の安定は南北朝合一からしたら50年しか安定していなかった幕府ということになるわけですな。
畠山義綱 > とすると、「足利義勝の時代は、将軍権力の低下に伴い諸大名の自立を促すきっかけとなった」というような解釈になりましょうか>皆様
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
宿禰守 > 能登の場合は、七尾と羽咋の口能登の両方を抑えるとことが、戦略的に重要だったから。
武藤舜秀 > 明けましておめでとうございます。>公方様
左馬頭義輝 > 皆様、あけましておめでとうございます。大変遅くなりました
畠山義綱 > こんばんわ>公方様
左馬頭義輝 > つい先ほど尾張より帰還しましたところで、まずは子供の寝床作りから・・・
畠山義綱 > 義教と信長は確かに共通点がありますね。そして同様にその治世は一定の評価は得ていますよね。>武藤様
左馬頭義輝 > 今回の時代背景は極めて複雑怪奇、従って面白さもひとしおですね。
武藤舜秀 > 義教も比叡山焼いていませんでした?
長続連 > うーん評価が難しい。将軍から自立していたら、応仁の乱とか起きますでしょうかね。義勝の時代をどう評価するか。地域権力が自立し始めたのは、間違いないわけですが。
宿禰守 > 寒川さんの清酒飲みながらしばらく観戦します。
武藤舜秀 > 将軍が力をつけすぎると恐怖政治になるし、反対に力がなさすぎると守護各氏が争う。
畠山義綱 > 「自立を促す胎動となった」でどうでしょう>対馬守様
左馬頭義輝 > 義勝の時代はかなり宙に浮いた感じがしていますので、その分評価も難しいですね
武藤舜秀 > 先ほど言っていた番組が始まりましたね。本能寺の発掘調査していますね。
長続連 > そうですね、そちらのほうがより実態に近い表現ですかね〉義綱公
畠山義綱 > 武藤様が指摘している通り、義教は比叡山を焼いていますし、大和の興福寺にも攻撃し、宗教勢力に実力行使をしていますよね。これは力がなければできないことです。だからこそ信長もできたわけで>武藤様
宿禰守 > 領地をもった大地主の武士が大名なのだから、元々自立していたのではと。権威がほしかったでけでしょうから、胎動いいですね。
畠山義綱 > 「足利義勝の時代は、将軍権力の低下に伴い諸大名の自立を促す胎動となった」
武藤舜秀 > いいですね。でも、時代と言うほどの期間ではなかったでしょう(笑)
左馬頭義輝 > 義勝の時代はまだ権威としての将軍の力は有していましたが、それを補佐する管領はじめ将軍側近が余りに無能だったから一気に悪いほうへ流れていったんじゃないかと思います。筆頭は細川持之・・・
畠山義綱 > いえいえ、それが 守護大名は領地をもってはいないのです。領国経営権はないのです。あくまで幕府から任命された官僚的なものに過ぎません。半済令も領主である公家から半分 もらう権利を得ていただけなのです。だからこそ、「領地をもった大名」という考えは守護大名には当てはまらないかもしれません。だからこそ、幕府への依存 度も高いわけですが。>宿禰守様
宿禰守 > 胎動??どんな子供がうまれるのか?(笑)
畠山義綱 > 確かに、わずか将軍在位8ヶ月。時代と言えるほどの期間ではないですね(笑)>武藤様
畠山義綱 > では次の足利義政の時代にいきましょうか。この将軍は語るべきことの多い将軍ですね。世間一般では決して評価の高い将軍ではないですが…。
武藤舜秀 > 義政。いい評価といえば、銀閣寺建立・・・。でも、当時とすれば、何でこんな時に?って思われたでしょう。
宿禰守 > 守護大名は領国経営権持っていたが、実態は守護代に経営を任せていたのではと。
畠山義綱 > 公式には領国経営 権は守護大名はありません。鎌倉時代の大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大 番役の指揮監督という軍事・警察面に限定されたものに加え、刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張する ために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することがなどができたに過ぎません。
宿禰守 > 守護領国制は、南北・室町に派生しましたから、そう一概には言えないのでha??
畠山義綱 > つまり、守護大名は、徴税などの官僚的機能と、国人間の争いの調停などの司法機能を得ていただけで、行政権や立法権はありませんでした。荘園を押領したりするのは、まくまで非公式行為です。訴えられたら幕府から怒られます。
畠山義綱 > もちろん、まったく守護大名が領国経営をしていなかったとはいえないと思いますが、それにしても領国経営は非公式のものであり、それも幕府の守護補任という幕府権威が前提であったという面があります。
長続連 > うーん。前近代に近代の三権分立観念を当てはめるのは、個人的に抵抗ありますな。
武藤舜秀 > いろいろ見てみると詳しくなるんですね。
畠山義綱 > 義政は東山文化の立役者ですね。銀閣の他にも、作庭や雪舟の水墨画など文化面での功績はたっぷりですね。>武藤様
宿禰守 > 権利もなく、京にあった名ばかりの武力もない公家大名が、なぜ在地の戦国大名に変身できたのでしょうか?。
畠山義綱 > いまいちうまく説明できなくてすみません…>長対馬守様
長続連 > まあ室町期守護は、鎌倉期守護が持ってなかった国府の権限を吸収してますから、一国の政治秩序の中心にあったのは確かなわけですな。
武藤舜秀 > 義政のこと話しましょうよ・・・(ボソッ)
畠山義綱 > あくまで私の私的 な推論に過ぎませんが、非公式でも領国経営を行おうと努力した大名は在地化に成功し、そうでないところは、在地化を在地で進めていた守護代や国人にとって 変わられたのではないかと。いきなり戦国大名が領国経営権を獲得できるはずもないので、基本的に権限がなくても、実態的に徐々に領国経営権を吸収していったのではないかと>宿禰守様
畠山義綱 > ごもっとも(笑)>武藤様
長続連 > いえいえ。私もなかなか表現しにくい問題ですし(汗)〉義綱公
宿禰守 > 確かに国の経営は、国衙機能で、武士は経営権は公式にはなかったかも。でも実態はその権利も取得していった。そこに乱世が始まった。
畠山義綱 > 義政も8歳で将軍になったわけですし、やはり足利義勝期にみられたような、「諸大名の自立を促す胎動」がさらに拡大していった。のかな?
宿禰守 > ごめん。本題にもどして。
畠山義綱 > だいたいその通りだと思います>宿禰守様
畠山義綱 > 義政は元服したくらいから、政治に意欲的に関与していこうとしたと言われますが、それは本当なのでしょうか?
畠山義綱 > 参考「当初の義政は祖父・義満や父・義教の政策を復活させようと試み、また鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対しては成氏追討令を発して異母弟の堀越公方・足利政知を派遣するなどして積極的な介入をするが、三魔と呼ばれる乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家をはじめ、将軍家の執事であった伊勢貞親や正室・日野富子の実家の日野氏等の側近が政治に介入していき、将軍としての政治の実権は無いに等しい立場であった。」(ウィキペ ディア・足利義政の項)
小姓 > 長信氏殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > お帰りなさい>信氏様
畠山義綱 > おかえりなさいませ!>長信氏様
左馬頭義輝 > 義政期の出来事は、土一揆から始まり応仁・文明の乱で混乱に拍車がかかり、最後は義尚の反抗で終わってしまったという、まさに乱の時代でしたね
長信氏 > 参陣つかまつります。
武藤舜秀 > この三魔は結託していたのでしょうか?
畠山義綱 > まさに、室町時代の一大事ですよね。この義政時代は>公方様
長続連 > 結託してたとしても、前代にはなかった三魔と呼ばれる階層の連中が、なぜ、実権を握れるようになったのでしょうか
左馬頭義輝 > そのとおりです。室町時代としても歴史の転換期としても、切り離せない事項がこれでもかと出てきています>修理殿
宿禰守 > 乳母の勢力を侮ってはいけません。
左馬頭義輝 > 三魔の出自にあろうかと思われます>長様
畠山義綱 > 確か、この三魔はそれぞれが権力を持とうと対立したはずです。今参局は結局日野富子に追放されてしまいますし。
武藤舜秀 > 春日局の例もござりますれば。
武藤舜秀 > 今参局は近江で自害していますね。
長続連 > 乳母は足利歴代将軍にいたわけですが、その乳母が介入してくるという政治構造の変化が気になるのです
左馬頭義輝 > 有馬持家は赤松氏の一族で、義政の義教期の反動で赤松贔屓で出てきた人物で、烏丸資任は日野一族。
宿禰守 > 乳母はそれなり氏族の背景と思惑が隠されていたと思います。平安時代から乳母一族の介入がありましたから。
武藤舜秀 > 有馬は赤松の出ですね。
畠山義綱 > 女性が権力に介入してくるというのは、北条政子の例もありますし、めずらしいことではないと思います。ただ、乳母というのはどうなんでしょう。江戸時代になると、乳母も力を得てくるようですが、室町時代は?
畠山義綱 > なるほど>宿禰守様
左馬頭義輝 > で、今参局は奉公衆大館氏の一族で将軍に近侍するには格好の位置にいた人物です
長信氏 > 確かに、乳母の勢力は、あなどることはできませんね。乳母の家系は力があるのがほとんどです。
畠山義綱 > 私は義政が権力を取り戻そうとした動きは当然あったと思うのです。義満・義教・義政・義輝・義昭もそうですが、将軍権力が低くなり、実力を取り戻そうと時代をゆり戻す動き(反動)は絶対に出てくると思うのです。
武藤舜秀 > その考え方に賛同します。>畠山様
長信氏 > 確かに!
左馬頭義輝 > この頃かどうかはわかりませんが、乳母は乳を与えるだけではなくある程度成長した男子に夜伽の手ほどきをする存在だったらしく、義政はその色香にすっかり参ってしまったそうです
畠山義綱 > ありがとうございます!>武藤様
長続連 > うーん表現するのが 難しいのですが、女性が政治に介入することは中世に広く見られた現象ですが、足利幕府では義政以前は、その傾向が表出しなかったわけですよね。義政の代に表出するのは、以前はそれを押さえていた幕閣の勢力が後退するなどの、政治構造自体の変化があったのかなあと
長続連 > 地方権力が自立の傾向を強める中、義政が求心力を高めようとしたことはあったでしょうね〉義綱公
畠山義綱 > 私も続連様のご意見に賛成!将軍の周囲が騒がしくなるときは、将軍個人の権威が低下し、周囲が幅を利かせるうまみのある時期。それだけに権力構造の変化が起き易く、それ自体が政争となり、はては応仁の乱を巻き起こしたとも考えられませんか?
左馬頭義輝 > 将軍家の権力は元々それほど強くないので、それを推し進めようとすると当然自前の武力が必要となってきます。それが奉公衆。
宿禰守 > 乳母出身で有名な古代人は、橘諸兄の母、縣犬飼宿禰三千代。
畠山義綱 > その通りですね。しかし、結果義政が求心力を高められなかった理由は、将軍個人の能力だけではないですよね。義満・義教のころとは時代背景も違いますし。>対馬守様
長信氏 > 奉公衆自体の武カは、相当なものなのでしょうか。
宿禰守 > 乳母ではないけど、北条政子の例もあり、女性の存在は大きいと思います。
畠山義綱 > 日本全国の歴史を 調べているわけではないのでなんともいえませんが、奉公衆もどうでしょう。15世紀も半ばになると、守護大名などが領地の基盤を横領したりして、経済基盤の弱体化があったのではないでしょうか。能登の例でも奉公衆である長氏が16世紀半ばに守護の被官となりますし、そういった動きが全国で見られたのではないでしょうか?>公方様・長信氏様
左馬頭義輝 > そうですね。将軍が力をつけ始めようとした頃はすでに周囲の大名はその力のはけ口を求めていた程になっていましたから。そこに権力構造自体歪みが生じ将軍家による騒乱の制御ができなくなってきたんじゃないかと思います>修理殿
長続連 > 私の見通しですが、義政以前の将軍・守護大名が連合する政治構造が義教以降、崩壊し、その政治構造の流動化のなか、地方は自立の傾向を強め、中央では三魔なる連中が台頭する状況が出てきたのではないかなと思います。
左馬頭義輝 > 奉公衆の経営基盤の多くは近江や加賀にあったものとされていますが、実際は結構散在していて単独での領地経営が困難になってきたと思います>修理殿
畠山義綱 > 義満・義教・義政・義稙・義輝・義昭と時代が下ると共に将軍権力を取り戻そうとする反動の成功範囲が小さくなっているように思います。これも戦国大名など徐々に地方勢力が強くなってきているから、幕府の復権が難しくなったということでしょうかね。
左馬頭義輝 > 在地の守護は、観念的に見ても奉公衆の持つ経営基盤よりもはるかに強大で、将軍権威を押し出したとしても奉公衆にそれらに抵抗する力はなかったのでしょう
畠山義綱 > そうですね。確かにパワーバランスで言えば、義教以前では少なくとも将軍=有力守護たち(ともすれば将軍>有力守護たち)でしたが、義勝以降は完全に将軍<有力守護たち になってしまいましたね。>対馬守様
武藤舜秀 > 難しい話になってきてますね。
長続連 > そうでしょうね。地方勢力の自立化、それが本時期の一番の特徴でしょう。そして、それは守護→守護代→一般被官→国人→有力農民と在地の支配権が下降していった反映でしょう。
畠山義綱 > 私も奉公衆の領地が散在したというのは聞いた気がます。そうなれば、結局巨大な経済基盤をもつ守護大名には勝てませんよね。>公方様
長信氏 > 守護には、もはや将軍家は頭になかったのか。と思います。
宿禰守 > 守護→守護代→一般被官→国人→有力農民と在地の支配権が下降というよりも、変貌していった。
畠山義綱 > そういう大名もいたかもしれませんが、先ほど宿禰守様も指摘している通り「戦国武士の世襲カリスマ性の継承とか、まだ武力よりも権威の方が?」ということで、強制力を伴う 権力は衰えてきても、将軍権威というものはまだまだあったと見るほうがいいではないですしょうか。でないと、1573年までの室町幕府の存続が説明が難しくなります。もちろん、「将軍家は頭になかった」のが織田信長なんでしょうが>長信氏様
長信氏 > そのとおりです。畠山義綱様
武藤舜秀 > 京から近国の大名は将軍のことは考えずに、遠国の大名はまだ将軍の力を必要としていたと思います
長続連 > うーん。中央政権と在地社会のパワーバランスでは、中世前期と比較して明らかに在地社会の主導権が強まっているので、「下降」と表現した方がよいかなあと思ったのですが。
畠山義綱 > ありがとうございます>長信氏様
長続連 > やはり商業経済の発展と、その掌握の強弱が要因でしょうか〉武藤様
畠山義綱 > 表現が難しいですが、変貌というと一方向の動きだけでなく、まだ戻ったり複雑な動きをするので、「下降」の方が適している気もしますが…いかがでしょうか。
武藤舜秀 > 出来事から見れば見るほど、遠国の大名が上洛して将軍に謁見していたり
長信氏 > どうでもいいと思いますが、もし私が、1000でも兵があれば、全てを捨ててでも参陣しますが!
武藤舜秀 > 近国の大名が将軍を殺したり・・・
武藤舜秀 > これは、位置的な環境や権力闘争にもよりますが
畠山義綱 > この将軍に対する諸大名の接近というのもなかなか難しいのですが、応仁の乱で義政に反して西軍に属した能登守護・畠山義統は将軍の赦免を請うために涙ぐましいほどの大量の贈り物をしております。15世紀後半においても将軍権威がまだまだ高かった証拠だと思います。
武藤舜秀 > 逆に遠国の大名は将軍の力を借りて敵国と和議したり
宿禰守 > 酒がまわって、ついていきませんぬ。でも勉強になります。
武藤舜秀 > 然し、九州の大名はあまり上洛して将軍に謁見していませんよね
長続連 > 先ほどの発言と関連しますが、権力の「下降」に伴い、守護へは逆に下からの突き上げが強くなり、それを押さえるため幕府権威を借りたと言うことですかね。
畠山義綱 > 武藤様がおっ しゃっているのはおそらく義輝期のことでしょうか?私も諸大名の義輝への接近を調べたみたことがあるのですが、将軍に接近しているのは遠国の大名で守護大 名系が多かったです。私の推測では、権力基盤が弱体化した大名はより上位権力に頼ろうとした結果、将軍に接近したのではないかと思いました。>武藤様
武藤舜秀 > まあ、時代は下ってしまいますが、義晴、義輝の時代が多いですよね。
畠山義綱 > 確か大友宗麟は義輝に鉄砲の製造技術を献上しませんでしたっけ?<九州の大名>武藤様
武藤舜秀 > でも、それくらいでしょう・・・。東国の方が頻繁に多いように思えますが?
畠山義綱 > とりあえず「義政の時代は、権力構造自体歪みが生じ将軍家による騒乱の制御が難しくなり、以前の幕閣の勢力が後退するなど、政治構造自体の変化が激しいかった」でどうでしょう?
長続連 > 大内なんかは朝鮮国王の権威を借りようとしてますしね。西国大名は明や朝鮮など、足利幕府を相対化する権力があったから東国大名の幕府への態度との差異がでたのではないでしょうか。
畠山義綱 > 確かに…。あんまり聞きませんね<将軍接近>武藤様
畠山義綱 > なるほど!>対馬守様
長信氏 > 退きの、法螺貝が鳴ってしまいました。これより撤退します。今日は、大変勉強になりました。ありがとうございました。
武藤舜秀 > なんででしょう?
長続連 > よいと思います〉義政の時代は、権力構造自体歪みが生じ将軍家による騒乱の制御が難しくなり、以前の幕閣の勢力が後退するなど、政治構造自体の変化が激しいかった
武藤舜秀 > あら、おやすみなさい>信氏様
畠山義綱 > またです!ぜひ次の機会も!>長信氏様
宿禰守 > 幽霊の正体見たり枯れ尾花という歌がありますが、なぜ、将軍の権威はちにおちたのでしょう?
長続連 > お休みなさいませ〉長信氏様
畠山義綱 > 私は逆に「将軍権力が地に落ちた」とは思えないのです>宿禰守様
長信氏 > 11時まで起きれない体質なもので!お休みなさい皆様方。
武藤舜秀 > そうですね。六角征伐!
畠山義綱 > やはり、足利義尚といえば、六角氏征伐でしょう!>武藤様
長続連 > 足利将軍の権力は後退したが、権威は残存した、これが16世紀社会の特質を解く鍵となりそうですね。
畠山義綱 > 武藤様、以前も聞いた気がしますが、六角氏を幕府が征伐した理由はなんでしたっけ?
畠山義綱 > そうですね。私の大好きな「傀儡政権」のキーワードでもあります。満州国もまたしかり。
長続連 > 究極的にいえば、近代以前の天皇制もそうですね。
宿禰守 > 枯れ尾花と知っていても、まだ利用していた?
武藤舜秀 > 六角氏の荘園横領や近江の内乱に乗じての征伐でしょう。
畠山義綱 > 「地に落ちた」と いうのは、裏を返せば存在価値がなくなったわけで、確かに足利義昭政権の末期はその通りですが、義輝期に至っても「将軍の存在が邪魔だったから殺害した」 わけでして、その意味では存在価値は十分にあったわけです。無論、松永らにとっては邪魔な意味で存在価値があったわけですが>宿禰守様
武藤舜秀 > 腐っても鯛ですからね>将軍
畠山義綱 > そうですよね。ということは、近代以前の日本は将軍と天皇という二重の傀儡権威があった存立したわけですね>対馬守様
畠山義綱 > う〜ん、表現が的確過ぎる(笑)<腐っても>武藤様
武藤舜秀 > そうですね(笑)
宿禰守 > 理解しました
長続連 > ある意味、腐ったら鯛でなくなったのが、鎌倉将軍や徳川将軍だったわけですよね。そこに室町将軍の特質がありそうです。
宿禰守 > 腐ったら鯛でなくなった?わかりにくいなあ。
畠山義綱 > 「六角氏の荘園押領」「近江の内乱に乗じて」というのが征伐の目的なら、それこそ将軍権力低下の反動としての動きと言えると思います。勝手な領国経営を始める大名を幕府という公権力で始末しようとした。
武藤舜秀 > 近江の寺社や、諸国守護大名から六角征伐の進言があったようです。
長続連 > そうですね。特に中世後期なんて天皇・将軍という二重の傀儡権威があったわけで、、、、日本の中世社会くらいではないですか。こんなややこしいの(笑)〉義綱公
武藤舜秀 > 鎌倉は無くなっても鯛? 江戸は薫製にした鯛?(笑)
畠山義綱 > 「両雄並び立たず」と言いますが、不思議と日本の中世はその矛盾を内包したまま何百年と来たわけですね。二重傀儡権威を打破できるほどの強力な権力をもった政権が現れなかったからかな?
畠山義綱 > 六角氏征伐を進言した諸国守護とは、これいかに?>武藤様
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
長続連 > わかりにくい表現ですみません。鎌倉将軍は鎌倉幕府崩壊で消滅したし、徳川将軍もしかり。足利将軍のみ、其れこそ嘉吉の乱からでも100年以上、追放されたり、復興運動があったり、しぶとい。その違いを表現したかったのですが。すいません。
畠山義綱 > おかえりなさいませ。今は義尚期の話でございます。>公方様
武藤舜秀 > あっ、幕府奉公衆でした。
長続連 > そうだと思います。そして、その背景には先ほどから話題になっている、嘉吉の乱以降の地方権力の自立と、弱体な中央政権という状況があったかと。
宿禰守 > 入れ替わりで、ちょっと休みます。起きれたら参加します。では、
武藤舜秀 > 了解です>宿禰守様
畠山義綱 > 義尚期の話を要約 しますと、「六角氏討伐の理由は?」(畠山) 「六角氏の荘園横領や近江の内乱に乗じての征伐でしょう。」(武藤様) 「「六角氏の荘園押領」「近江の内 乱に乗じて」というのが征伐の目的なら、それこそ将軍権力低下の反動としての動きと言えると思います。勝手な領国経営を始める大名を幕府という公権力で始 末しようとした。」(畠山) 「近江の寺社や、諸国守護大名から六角征伐の進言があったようです。」(武藤様)という感じです!
畠山義綱 > 了解しました。またぜひ!>宿禰守様
小姓 > 宿禰守殿が退室なされましたぞ。
左馬頭義輝 > 義尚とくれば、キーワードは六角征伐、奉公衆、細川政元!
武藤舜秀 > 討伐には、畠山氏も参加していませんでした?
長続連 > よろしいかと〉義綱公
畠山義綱 > 大名としての畠山(河内・能登)は参加しておりませんが、将軍の近くにいた畠山氏がおります。どういう系統がよくわからんのですが(私は能登畠山家傍流なのでは?と思っておりますが)>武藤様
武藤舜秀 > なるほど。
畠山義綱 > 近江の寺社は自分の荘園を押領させないため、将軍や奉公衆は自分の権力を誇示するために六角征伐を行ったのでしょうか。近江の寺社に請われて、幕府としてのメンツもあったでしょう…。
武藤舜秀 > そうですね。
武藤舜秀 > 然し他にも、応仁の乱で分散した諸大名の心をまとめる為にも何か一つ大きな事をして「義尚」の名を挙げてもう一度幕府再建を図ったのではないでしょうか?
武藤舜秀 > うーむ、今日一番のコメント(笑)
長続連 > 近江の寺社といえば、延暦寺・園城寺という権門寺院でしょうが、たかだか権門寺院と守護の争いに、将軍自ら介入せざるを得ない状況こそ将軍権力の弱体化を象徴していて面白いですね。
畠山義綱 > 確かにそうですね。将軍の権力を誇示するのには手っ取り早く有力大名を征伐すればいいことですし(義満の例もありますし)
畠山義綱 > そんなこと、ございませんよ。いつも貴重なご意見ありがとうございます!<今日一番>武藤様
畠山義綱 > 考えてみるとそうですね。確かに守護を征伐することは意義がありますが、小さな争いが原因で将軍が介入するというのは、幕府権力が局地勢力に成り下がってしまったことを示しているとも取れますね>対馬守様
長続連 > 関連して、以前の守護征討に将軍親征はあったんでしょうか?
畠山義綱 > 六角征伐の時には、大名としては冨樫政親しか参陣しなかったといいます。義尚はどんな勢力に派兵を促したんでしょうか?
武藤舜秀 > 近江において没してしまったので、はからずも幕府再興はなかったですが。
長続連 > なんかイメージ論ですが、長州藩へ親征した家茂と重なるんですよ。弱い将軍ほど、親征するという傾向があるのかなと(創業期は除きます)。
武藤舜秀 > あっ、冨樫氏でしたかね。最近大名が出陣したという記述を読んだのですよ。
長続連 > 大名の参陣がそれでは、求心力の回復という効果も?ですねえ〉義綱公
武藤舜秀 > 畠山様のところで読んだ(笑)
畠山義綱 > これがきっかけて、冨樫氏は領国に重税を課して、長享の一揆(1488年)で政親自害の一因となってしまうのですが…。
武藤舜秀 > 理由からすると、家茂と同じでしょうね。義尚と>長様
長続連 > よく考えたら両人とも病没してるとこまで似てます
畠山義綱 > 将軍親征についてネットで調べてみたのですが、義満も義教もちょっとみあたらないですね。やはり尊氏を除いては、義尚くらしか親征はないのでしょうか。すると本当に徳川家茂とかぶりますね。
畠山義綱 > どちらも、結局幕府の権威を落としていますね。
長続連 > 富樫も将軍の命に素直なため、損をしましたな(笑)
武藤舜秀 > もしかして、生まれ変わりですかねぇ?(笑)>家茂と義尚
畠山義綱 > 加賀国内に奉公衆が多いので、領国経営にすごく苦労したようです<冨樫政親>対馬守様
畠山義綱 > (笑)<生まれ変わり>武藤様
畠山義綱 > 関係ない話ですが、家茂と奥様の和宮は大変仲睦まじかったようで、うらやましいですな〜…
長続連 > ありがとうございます。そうすると、ますます義尚権力の特異性がはっきりしてきますね。将軍の守護征討史の上で義尚の六角征討を位置づけると、将軍権力の後退が見えて面白いですね。
長続連 > 和宮の遺体に家茂の写真が添えてあったらしいですしね(異説もあるそうですが)〉義綱公
畠山義綱 > では要約すると「足利義尚の時代は、将軍権力が低下したからこそ、その権力を誇示するために六角氏征伐を行い、さらに親征した。これは権力低下の反動ともいえる」でどうでしょうか?
武藤舜秀 > これも関係ないですが、朝倉氏の一乗谷城の包丁の裁き方に関して、「クロニック戦国全史」の129pの中ほどにあります>義綱様
畠山義綱 > ご教授かたじけない<包丁裁き>武藤様
武藤舜秀 > たまたま見かけまして(照)
長続連 >足利歴代将軍の守護征討では、初めて親征したと、みたいな文言を入れると、義尚の特異性が判りやすくなってよろしいかと。〉義綱公
畠山義綱 > 「足利義尚の時代は、将軍権力が低下したからこそ、その権力を誇示するために将軍親征(足利歴代将軍の守護征討では初めて)による六角氏征伐を行った。これは権力低下の反動ともいえる」でどうでしょう?
武藤舜秀 > いいですね!
長続連 > では、そうしましょう。個人的な好みの表現法だったかもしれませんが(汗)
畠山義綱 > とんでもない!いいご助言ありがとうございます!これで義尚政権の性格が浮き彫りに!
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > それでは、時間も遅くなってまいりました。恒例のまとめにいきましょうか。
畠山義綱 > おかえりなさいませ>公方様
長続連 > 承知です。
武藤舜秀 > おかえりなさい>公方様
左馬頭義輝 > 何か全然集中できなくて申し訳ありませんでした。
畠山義綱 > 討論会テーマ「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」のまとめを皆様お願い申し上げます!
武藤舜秀 > いえいえ、仕方ありませんよ
長続連 > おかえりなさいませ>義輝公
左馬頭義輝 > ものすごく興味あるテーマでしたので、この記録わくわくしながら拝謁いたします
武藤舜秀 > まとめ「義勝の死・義政・義尚の復権行動へのもがき。これに対抗して有力守護大名の権力闘争」どうでしょう?
畠山義綱 > まとめ「将軍権力の後退に伴い、その復権行動が顕著にみられた時期。しかし、諸大名の自立への胎動もあり、成功することはなかった。」
左馬頭義輝 > 義勝期は将軍の横死による守護大名の自勢力の認識と野心拡大。将軍権威は残るが甚だしく失墜した。
長続連 > 嘉吉の変は、15世紀前期における室町幕府の政治構造の基調にあった、将軍・守護の連合構造を崩壊させる契機となった。中央においては、将軍の血縁者・近臣が台頭し、地方で は在地権力が自立の様相を強めていった。そのようななか、義政・義尚は将軍権力の求心化政策を進めるも、義尚の六角氏征討の失敗はかえって将軍権力の弱体 化を衆目にさらすことになってしまった。以降、将軍権力の求心力の低下と、地方権力の自立はさらに進行していくことになる。みたいな感じでしょうか。
左馬頭義輝 > 義政期は将軍権威を利用しての自己拡張の実践期。しかし実際は己が勢力を誤認し実力以上のことをしでかしして体制そのものを皆で崩壊させてしまった。
畠山義綱 > さすが!今回の討論会をみごとにまとめた文章ですね>対馬守様
畠山義綱 > 次回のお題の将軍は「義稙・義澄期」でどうでしょうか?その次に「義晴・義輝」、最後に「義栄・義昭」という感じでどうでしょう?
左馬頭義輝 > 義尚期は将軍権威復活の最後のチャンスであったにも拘らず、理念無き無茶な親征でかえって傷口を広げてしまった。
武藤舜秀 > 賛成です
畠山義綱 > 室町幕府の歴代将軍も理想の幕府像に燃えていたんでしょうね。そんな想いが伝わる公方様のまとめですね>公方様
長続連 > はい。結構です。今谷さんの室町幕府崩壊期の研究でも読んで勉強しておきます。
左馬頭義輝 > 面白いですね。将軍単体では語れない奥深い題材です。下の「こんなところ」発言は無視してください。すみません。まとめの端言葉で書いたら変につながってしまいました(焦)
畠山義綱 > 義稙・義澄は細川政元つながり。義晴・義輝は一緒に行動することが多かったですね。義栄と義昭はともに将軍を争った関係ですね。
武藤舜秀 > ここで三好氏の登場!
左馬頭義輝 > 身供が少し不安に思うのは、これだけの題材をおおよそ3時間の枠で語れるかどうか・・・
畠山義綱 > 次回の「室町幕府と将軍権力〜義稙・義澄期○○○○○○〜」○の部分の副題をどうしましょうか?
長続連 > 今日でも4時間近くなりましたしね(笑)
畠山義綱 > おお忘れておりました。義晴・義輝期は三好家が登場しますね!>武藤様
畠山義綱 > 長ければ前編・後編で(苦笑)>公方様・対馬守様
武藤舜秀 > 将軍就任への執念と逃亡生活・・・どうでしょう?
長続連 > 室町幕府の黄昏、とかはどうでしょう
畠山義綱 > どちらもいいですね、捨てがたいですね…。ここはひとつ、この両者の意見を聞きつつ公方様まとめて副題をつけていただけませんか?
左馬頭義輝 > 特に義稙・義澄は細川政元、義澄・義晴は細川高国、義晴・義輝は細川晴元の二川分流がお互い絡みますし
長続連 > よく考えたら、黄昏はもう少し後のテーマが相応しいですかね。まだ4人将軍いますし。
左馬頭義輝 > ありがとう存じます。では「流浪する将軍たち」でいかがでしょう?
武藤舜秀 > >「流浪する将軍たち」
長続連 > 私も結構です。
畠山義綱 > いいと思います!では次回のテーマ「室町幕府と将軍権力〜義稙・義澄期流浪する将軍たち〜」でよろしいですか?
武藤舜秀 > いいですね!
長続連 > はい賛成です。今日は皆様ありがとうございました。大変勉強になりました。
畠山義綱 > 公方様。副題の決定、ありがとうございました。そして、参加していただいた皆様ありがとうございます。今回もとても深く勉強させていただきました。(学校の勉強は苦しかった気がしますが、こういう勉強は本当とても楽しいものなのですね。)
畠山義綱 > それでは、今回の定例チャット討論会テーマ「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」を閉会したいと思います。皆様ありがとうございました!
小姓 > 宿禰守殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > ありがとうございました
畠山義綱 > おかえりなさいませ>宿禰守様
宿禰守 > 楽しませていただきました。ありがとう。
畠山義綱 > 今日は参加していただきまして本当にありがとうございました>宿禰守様
長続連 > では、皆様失礼致します。お休みなさいませ。〉皆様
小姓 > 長続連殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > お休みなさい
左馬頭義輝 > お招きいただきありがとうございました。また楽しく論じて行きたいですね。それではおやすみなさい。
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > では私も退きまする
武藤舜秀 > おやすみなさい
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。
畠山義綱 > それでは、私も失礼いたします。お休みなさいませ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。


−これにて終了−


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