不定期チャット討論会、過去ログY
「応仁の乱」

平成十二年長月九日土曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(当初参加者:味舌左京大夫政宗殿、畠山修理大夫義綱)
(後にたまっち殿が加わる。)


畠山修理大夫義綱(以下義綱略):では、(参加者が少ないので)私と味舌さんで「応仁の乱」の基礎的な話でもしましょうか?
味舌左京太夫政宗(以下政宗略):応仁の乱と越前といえばマイナーな斯波氏と朝倉氏しか思い浮かばない
政宗:それほど応仁の乱はくわしくないですけど基礎的な話ならばなんとか

義綱:越前朝倉は西軍ですが、主力をなしてはいないような気もしますね。
政宗:応仁の乱自体はその前から伏線がたくさんありましたよね
義綱:北陸の守護勢力の勢力別をあらわすと・・・西軍=能登畠山、越前朝倉
政宗:主力ではないでしょう。応仁記によれば斯波義廉は10000程度しか軍勢をだしていないから
義綱:東軍=加賀冨樫、越中神保
政宗:東軍は若狭武田、越前斯波義敏、加賀富樫
政宗:越中神保は東軍でしたか

義綱:伏線といいますと?
政宗:能登畠山は本家の義就についたわけですね>義綱殿
義綱:神保長誠は畠山政長の擁立者みたいなものなんです。
義綱:はい。畠山義就に2代畠山義忠の次男・政国が養子としていっていました関係です。

政宗:応仁の乱が始まる前に斯波氏、畠山氏の家督争いは始まっていてそれを細川勝元と山名持豊が加担していたと思います。
義綱:しかし、その政国が義就に実子が出来た事で越前朝倉孝景に殺害されます。よって(義就と)仲が悪くなり東軍へ移ります。
政宗:なるほど<神保長誠
義綱:そうですね。すでに畠山宗家の家督争いは始まっていたんですものね。でも斯波家も争っていたんですか。にしても斯波家家督争いより畠山宗家の家督争いがクローズアップされるのは山城国一揆が原因でしょうか?
義綱:畠山と斯波の家督争いに、さらに将軍家の(義尚VS義視)家督争いもありましたよね。

政宗:斯波氏については1459年に越前にて内乱までになりました。畠山氏の家督争いのクローズアップは山城国一揆ではないとおもいます。おそらくは応仁の乱の火蓋をきった洛中の戦い上御霊社の合戦が原因ではないですか
政宗:そのとおりです<将軍家の家督争い

義綱:なるほど<応仁の乱の火蓋をきった洛中の戦い
政宗:家督争い以外でも細川氏が急速に力を伸ばした山名氏に警戒を覚えたのも乱を広がらせる要因となったと思います。
義綱:にしても、これほどの勢力を巻きこんだ争いになったのは将軍権力の減退のせいでしょうか?
政宗:将軍権力の減退以上に将軍足利義政の一定しない動きが大きな原因ではないかとおもいます。
義綱:中立のち、西軍に加勢という姿勢ですね<義政の動き
義綱:畠山の家督争いに、山名と細川は加勢してはならぬという義政の命令を無視した山名宗全の罪もありますでしょうか?

政宗:中立後、東軍に加勢では?乱のはじまった2ヶ月後に山名討伐をだしてます
政宗:まあそうでしょうね中央においては山名は劣勢ですから、一挙にことを起こして牛耳ろうとしたんでは。かなり強引な人物だったらしいです。<山名宗全

義綱:間違いました。足利義尚=東軍ですね。<東軍では?
政宗:将軍の家督争いは足利義視をかついでいたのが細川勝元で、日野富子から支援を要請されたのが山名宗全。細川勝元は将軍の側近で富子の兄日野勝光を嫌っていましたから
義綱:足利義政もしたたかな人物で、1571年に管領代をえさに能登畠山の義統を東軍に移らせています。それに、越前朝倉も同年に東軍に移籍したので、北陸の情勢はいっきに東軍有利な状況へ
政宗:逆に越前では守護代甲斐氏をはじめ西軍の威勢がつよかったようです。
義綱:朝倉が東軍に移った要因はなんでしょうか?嫌いな斯波が東軍なのに・・
政宗:結局、越前の支配権を後内書(例の越前守護職)で守護に補任されたからではないですかね
義綱:甲斐氏は同じ西軍の加賀冨樫氏に接近したようです。冨樫は幸千代が東軍、政親が東軍で争っていましたから。
義綱:なるほど、これも将軍のえさつり作戦ですね<越前守護補任
義綱:甲斐氏は越前朝倉と後に手を結んだような・・・確か美濃の誰かが仲介に入って・・・。

政宗:甲斐氏と和睦したというよりは美濃守護代斉藤妙椿の斡旋で守護斯波義廉の子を名目上の越前の国主として迎えて、その補佐をする実質的な越前支配権を得たといいます。
義綱:私のHPを見ると「朝倉孝景(東軍)と甲斐八郎(西軍)が斎藤(美濃)の斡旋により和睦。甲斐氏の幸千代への支援減退。」と書いてありました。
政宗:甲斐氏についてはのちの1487年と1491年の訴訟で完全に越前から姿を消し、遠江守護代となっています。
義綱:甲斐氏は朝倉に邪魔者扱いされ、追いやられたのですね。
義綱:そう考えると、応仁の乱の北陸では東軍が圧倒的に有利ですね。

政宗:甲斐氏と朝倉氏の和睦は調停のあとですね。その和睦によって斯波氏分国の守護代の配置が決まったのは?
義綱:味舌さん、越前にも詳しいですね。
政宗:結局そのとおりですが、東軍にいた斯波義敏は没落してます。甲斐朝倉の和睦は西軍にいた斯波義廉を主人とすることで一致しています。
政宗:そんなことないですよ。自サイトで分国法・家訓をやるようになって福井県史などをよんだのでなんとか

義綱:斯波はこの後没落する一方ですからね。最終的には尾張一国。
政宗:その尾張にしても最後は織田信長にいとも簡単に滅ぼされてしまいました
義綱:尾張もすでに、信長に滅ぼされる以前に織田の一族に実権は奪われていましたからね。
政宗:でも斯波氏って足利一門でも本当に弱い印象しかないですね。奥州の大崎氏にしても15c中以降は完全に伊達の馬打ちだったようですし。最上氏も最後は江戸期に交代寄り合いとして残っただけ
政宗:そうです。織田氏でも岩倉の織田氏ですが<織田の一族に実権を奪われた。
政宗:北陸において応仁の乱で得をしたのは朝倉だけだったといってもよいですね

義綱:管領家も畠山、斯波は没落したイメージが強いですね。細川は三好長慶登場まで粘りましたが・・・
義綱:結局、実質の守護権の獲得。敵対勢力の排除<朝倉の得

政宗:その細川にしても、細川政元の修験道狂いと養子政策の失敗が元で大きく没落してしまいました。
政宗:細川も応仁の乱では得した部類になりますがね。管領を独占できたから

義綱:応仁の乱とはちょっと違いますが、細川晴元と細川藤孝の流れは違うんですよね。
義綱:畠山は大損ですね。山城では大変だし、宗家はぼろぼろ。能登も甚大な被害。管領職もその後はぱらぱらと見えるだけ・・・。

政宗:そうですね。細川藤孝は三淵家の出ですよ確か。
義綱:足利義晴の落胤説は何が出典なんでしょう?<細川藤孝
政宗:畠山の大損は応仁の乱が終わっても宗家は分国河内を義就に横領されるし、勝って管領になった政長も明応の政変で討ち死にするしいいところなしです
政宗:それは知りませんでした。<ご落胤<細川藤孝

義綱:やはり、家中の実力者の神保長誠が義就方に付いたのが大きかったです<畠山宗家
政宗:ゲームでは弱小扱いされている神保氏は史実では違うのですね。
義綱:それを見たのは恥ずかしながら「戦国群雄伝武将ファイル」なのですが、火の無いところに煙は立たない。なにか出典があるはずなのですが・・・。
義綱:はい。その後も長誠は紀伊などで活躍しています。神保氏弱小は1519年に神保慶宗が畠山義総・長尾為景に滅ぼされて以来ですね
義綱:これは、やはり義就方の没落と、一向一揆への対処への苦悩の結果です<神保慶宗が滅ぼされる
義綱:長誠は越中にもいましたよ。特に、越中公方・足利義材をかくまったことで有名です。いま、神保長職氏の「越中戦国誌」のHPをみて気付いたんですが、同HPによると「応仁元年正月、長誠は政長を説いて政長邸を焼かせ、上御霊社に立て篭もった。」とあります。

政宗:そうだったんですか。なるほど足利義材を匿った人物でしたか。ということは戦国時代前期(というべきではないが)では実力派武将だったといえますね
義綱:発端は神保氏かも。
政宗:応仁の乱の発端は神保氏にありですか。
義綱:政長を説得できる程の人物ですから実力派の武将でしょう。<長誠
政宗:応仁の乱はよく同時代におこったイギリスのばら戦争に比されますが日本のほうは守護も将軍も皆没落の道を歩んでしまったようです。
義綱:ばら戦争とはどのような戦争だったのですか?(世界史に疎いので申し訳ありません)
義綱:しかし、足利将軍家、斯波氏にしても、畠山宗家にしても没落していますからね<皆没落の道

政宗:まあ、イギリス王家が断絶したのでそのあとを巡ってゆかりのある王族が2つに分かれて争い、それに騎士や諸侯が加わって起った大戦争です。結局は対立していた王族が和睦してテュ−ダー朝(エリザベス1世はその最後の王ですが。)立て貴族層は共倒れになって王権が一気に強くなったそうです。
義綱:しかし、これで決定的に将軍権力が失われたと言うとそうでもないですよね。
義綱:それまでの、王朝は没落し、それに関連した貴族も没落したのですね。<ばら戦争

政宗:応仁の乱の勝敗は明らかに東軍にあったと思いますが、それに関わった連中は細川と赤松をのぞけば皆損をしたというべきかも
義綱:次ぎの将軍義尚は六角征伐軍をなんとか編成したわけですし、足利義稙のように追放されるということはなかったですし。
政宗:王朝が没落したのではなく後継ぎがないので断絶したのですが<ばら戦争
義綱:ただ、六角征伐には冨樫政親しか従軍しなかったそうです・・・(泣)
政宗:決定的になったのは義稙が追放された明応の政変がその始まりでしょう。
義綱:2つに別れたと言う事はもちろん一方は没落して一方は栄えたということになったのですよね?
政宗:世界史を受験の時やってましたけど詳細は少し忘れました<ばら戦争
義綱:幕府内で義政派の奉行衆を、義尚は奉公衆を支持したのですから、その当時の幕府の勢力も半分になっているはずです。
政宗:足利義稙追放の火種をまいたのはその父義視の無定見な動きにほかならないと思っています。
義綱:しかし、義晴・義輝期のように、御相伴衆をばしばし任命しない。一字を簡単に与えない。幕府直轄軍が多少なりとも機能している。と言う点では、衰えたとは言え、将軍権力の完全停滞には至っていません。
政宗:おっしゃるとおりです。1530年を越すと将軍が御所にいないことのほうがおおかったのでは?<将軍権力の完全停滞
義綱:そういった意味(将軍権力の完全停滞が起こっていない)では戦国時代はまだ始まっていないとも言えますね。
政宗:将軍権力が停滞をおこした1493年の明応の政変以後を戦国時代の始まりとする学者も多いですね。たとえば小和田氏とか
政宗:じつは私もその口です。応仁の乱は戦国のきっかけでしたけど。

義綱:義視と日野富子との提携もありますしね<追放の火種
政宗:最初は提携してましたけど義政が死ぬと義視は将軍の如き親政を行い、日野富子を圧迫したので日野−細川政元ラインができてしまった<追放の火種その1
義綱:守護など諸勢力の没落はあったが、それは根本的な将軍権力の否定(傀儡化)にならず、戦国時代の始まりにはならなかった。
政宗:そうです。義政、義視、そして関東では政知が死ぬまでは<将軍権力の否定
政宗:地方で戦争しているだけが戦国ではなく、当時の権威の中心が傀儡になった時点から一気に戦国の世、下克上が進んだと思います。

義綱:義稙の追放は細川政元を自派に引き入れなれなかった事と、それなりに味方は多かった(北陸勢力や大内氏など)が、畿内での派遣確立に至らなかったことですね。
義綱:そういった意味では、義稙を例にとると戦国の世が理解できますね。<戦国の世

たまっち:が参上いたした。
たまっち:おはつにおめにかかります
政宗:細川政元を引き入れようとしたが応仁の乱の対立関係からどうしてもできなかったこととこのクーデターのみそは義視が最初東軍にいたのに戦乱を避けて逃げている間に東軍に対立した日野富子がいたため逃げ出し西軍に担がれたことであり、その義稙がかつて西軍で共に戦った畠山義就の子を責めるという矛盾からおこったものだと思います。ちなみにクーデターに参加した守護は土岐、山名、一色などかつて西軍に所属した守護だったのですから
政宗:はじめまして、たまっちどの

たまっち:斯波家はどちらに所属したのでしたっけ?
政宗:義稙の一生が戦国を物語っているように思いますね
義綱:お初です>たまっち殿
政宗:斯波氏は家督を継いだ義廉が西軍で家督争いに敗れた義敏が東軍です。(両方にいた)
たまっち:現在の秋田・・出羽の国の斯波家が東軍ですか?<ごめんなさい、わからなくって
政宗:東北の斯波氏(大崎氏、最上氏)は関係はありません。>たまっち殿
たまっち:なるほど・・
義綱:1500年頃の戦国時代シナリオを作って欲しいなあ・・・。
政宗:私も同感です。1534年は中途半端過ぎる。>義綱殿
政宗:せめて、1520年ぐらいからでもいいからそうでないと、西国の方が今一つになってしまう

たまっち:そうですね、1500年あたりから作って欲しいです
政宗:KOEIは信長にこだわりすぎるような
義綱:ちなみに、足利義晴は『日本史研究』453号に「足利義晴期の政治構造」という論文があります。足利義尚にも『史学雑誌』98編2号に「足利義尚政権考」という論文があります。同じ応仁の乱後の将軍権力でもやは差があることがわかります。
たまっち:毛利元就のものもありましたけどね・・、いまひとつ・・
義綱:こだわりすぎるといえばエンディング。覇王伝・天翔記などでは「敦盛」を舞う信長が出てくる。信長でクリアしてないのに・・・。(怒)
政宗:どちらもエンディングを見る前に飽きてしまって<覇王伝、天翔記
義綱:1534年だと、旧勢力が本当に朽ちてしまう直前。もっと守護などが自由に活躍できる1500年あたりが欲しいところですよね>政宗殿
たまっち:スーパーファミコン版の天翔記はものすごくきれいですよ<信長関係ないし
たまっち:ただ、イベントも信長中心なのはやめて欲しいですよね・・
義綱:天翔記は小勢力も出てくるし比較的遊びやすいソフトでしたね>たまっち殿
政宗:その通りです。1500年といえば守護が分国の派遣をかけてかけまわっていたい時代ですからね。戦国大名ならぬ戦国守護として
たまっち:そうですね。小勢力もそうですが、もっとも設定が細かくてよかったですね>修理大夫殿
義綱:コーエーは次ぎの舞台として南北朝の乱なども考えているようですが、1500年シナリオでも十分人気もでると思うのだが・・・。
たまっち:外にも身内にも敵がいた時代ですよね>左京大夫殿
政宗:ただ、大内が強すぎる。何で尼子はあんなによわいの?<天翔記
たまっち:尼子はもっと強いはずですよ。ただ、毛利を強くするためとしかとれません・・
義綱:大内の強すぎる原因は領国の国力だけで強さが決まるのが原因だと思います。ゲームに支配の脆弱性などないですからね。
政宗:南北朝は辞めたほうがいい。複雑過ぎる。とくに観応の擾乱などは>義綱殿
義綱:コーエーは勝者に甘いところがたまにきず。
たまっち:それに、村上水軍をただの武将としてあつかってるのはおかしいと思います・・(河野氏は大名だったけどね
政宗:そうです。外は他の大名、内は守護代をはじめとする国人領主達>たまっち殿
義綱:そうですね。南北朝をどこで切る(時代設定)ですかが問題ですよね>政宗殿
義綱:武将風雲禄なんかは「大内義長」でプレイできて陶晴賢に命令できるなんておかしい!まあ、その辺(傀儡)を表現するのは難しいですが・・・。

政宗:最初だけですよ足利尊氏北朝と後醍醐の南朝が戦っているのは、足利兄弟が喧嘩をはじめたら、尊氏はあっさり南朝に降伏してしまうし、なんの為の南北朝かわからない。時代のきり方が本当に重要になります。>義綱殿
義綱:とりあえず、「応仁の乱」の結論は、戦国時代のきっかけになったに過ぎないということに決定致しましょうか?>政宗殿
政宗:応仁の乱以前にも戦乱はありましたけど、大きなきっかけとしては応仁の乱に行き付きますからね。結論としては妥当だと思いますよ。>義綱殿
たまっち:そろそろ落ちます。
たまっち:今日は、ありがとうございました
たまっち:が帰参いたしました。
政宗:おやすみなさい。たまっち殿
義綱:さようなら、また来てくださいね<たまっち殿
義綱:今回もなんだかんだいって、良い結論が得られましたね。このログは、不定期特集としてアップします。
義綱:今後は定例チャットも考え直さないと、参加の是非を確認しないと駄目ですね。

政宗:1時間待ってもだれもこないのでひやひやでした
義綱:私の不手際で、政宗殿には御迷惑をおかけ致しました<ひやひや
政宗:北陸でも越前よりは越後のほうが盛り上るんじゃないですか。上杉フリークの方も多いように思いますし。
義綱:越前の方も会員におられるのですが、忙しいようでチャットに来ていただけなんです。
義綱:にしても、もっと気軽なテーマで論議しないと会員様以外の方も入って来づらいですね。

政宗:みなさん忙しいから仕方ないですね。
義綱:では、我々も落ちましょうか?
政宗:そういう場合は戦国時代前期はかなりきついでしょうね。気軽に行くなら有名武将の談義とか
義綱:政宗殿。更新中止になさって、下書の全部コンテンツ化なさっているようですが、とても楽しみに待っております。頑張って下さい!
政宗:そうですね。もう3時かそろそろ落ちましょう。今日は楽しかったです。それは御免
義綱:マイナー武将で無いと我々的に面白くないですよね(爆)
義綱:おやすみなさい>政宗殿
畠山修理大夫義綱:が帰参いたしました。

政宗:そうです。御先祖関係はまず時代別にして150名ぐらいにしようと思っています。これまで思いつきコラムみたいだったFOCUS戦国時代は体系的にする予定です。
政宗:義綱殿おやすみなさい
味舌左京太夫政宗:が帰参いたしました。

−これにて終了−


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