畠山義綱のコンテンツ(‘99年)


テーマ「私が選んだ北陸の重大事件」

「上杉謙信の能登進攻(1577年)」


 やはり、私が選ぶとしたら能登畠山関連となってしまいますね。(笑)

 上杉謙信の能登進攻が北陸にどんな影響を及ぼしたかというと、北陸における旧勢力(守護勢力)の消滅という意味と、北陸3国(能登・越中・越後)の上杉領国化ということであろう。何故能登に進攻したのかと考えてみる。上洛政策の一環としてと良く言われるが、本当にそれだけが目的であろうか?現に上杉謙信は、七尾城を開城させた後、北加賀にて織田軍を敗走させているにもかかわらず、その地を占領していない。これは、それまで謙信が散々関東に出兵してもその地を制圧しなかったということと同じ事だと考えてはいけない。何故なら、前述のように謙信は上洛を目標としているのに、北加賀を占領しないと言うのはおかしい。北加賀は越後から京都への陸路の通り道であり、上洛するつもりなら当然抑えておくべき地なのである。そうなると、謙信の能登進攻の目的は上洛政策が目標ではなかったのではなかろうか?

 それでは、いったい、謙信の能登進攻理由はどこにあったのであろう。それは、両越能三国を一大商圏とする上杉領国の建設であると東四柳氏は指摘している。つまり、海路輸送の場合、越後の船は必ず能登国輪島の港を経由しなければならない。事実、能登畠山家と越後長尾(上杉)家は海路を通じてそれまで密接な関係を持っていた。たとえば、越後の船が輪島に寄港する際、能登畠山家の三条西実隆宛の手紙を預かって届けたりしていたのである。いわば、能登畠山家と長尾家の同盟関係はこれに由来するのである。

 しかし、その両家も能登畠山家の当主権力が衰退すると状況が変わってきた。畠山家中では重臣・長続連が織田とむすび、安定的な航海の保証が妨げられる危険性が生じた。それによって、いよいよ長続連が畠山家中の実権を握ったとき、遊佐続光を使って、能登に進攻したのではないかろうか。

 とにもかくにも、能登畠山家は滅亡し、それにより越後上杉・能登畠山・越中畠山(神保)・加賀富樫・越前朝倉らの旧勢力は1577年をもってすべて顔ぶれが変わってしまって、まさに室町時代体制が名実ともに終わってしまったと思う。


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