畠山義綱 私的論文コーナー
Since 2009〜現在

第二次世界大戦でなぜ日本は負けたのか。
どうしてあの戦争に挑んでいったのか。
その一端を明らかにするために「大日本帝国憲法」に注目して論文を考えてみました。

論文テーマ「大日本帝国憲法と民主主義」 著:畠山義綱

はじめに

 戦前作られた「大日本帝国憲法」。「天皇主権」「統帥権の独立」「兵役の義務」「臣民の権利は法律の範囲内に於いて」「臣民の権利は安寧秩序を妨げない限り」と、民主主義には不完全で「外見的立憲主義」と言われるこの憲法。筆者も「大日本帝国憲法の制度的限界」と題して、太平洋戦争に至るひとつの理由をこの憲法に求めた。ただ、すべてこの憲法が諸悪の根源なのか。私は疑問に思う。「大日本帝国憲法」を論ずるなら、その条文を逐一見る必要がある。そこで、本稿では実際に憲法の条文を用いて論じてみたい。

1.憲法の条項の分析

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これをもって、大日本帝国憲法は非民主的な天皇大権を認めた憲法だと思われがちだが、憲法はその条文をよく見てみると、意外に現在の「日本国憲法」に近いことがわかる。

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
この条項をみると、ほぼ美濃部達吉が主張した「天皇機関説」という解釈が正しいと思われる。天皇であっても、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」を統治権を制限されていたのである。

第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
 この条項をみると、天皇は法律を超える勅令を持っている。まさに天皇大権とも思える(それであっても帝国議会の閉会中のみしか勅令は出せない)。しかし、次の条項を見てみよう。
第8条2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
 とある。すなわち、天皇の勅令とはいえども、次に招集された帝国議会で承諾されなければ天皇の勅令は「其ノ効力ヲ失フ」とある。これは現在の日本国憲法第54条の「参議院の緊急集会」に似ている。日本国憲法でも、衆議院の解散中で緊急の必要がある時は、参議院の緊急集会を求めることができる。ただし、緊急集会で決まったことは次の衆議院で同意がない場合には「その効力を失ふ」とある。しかし、これには問題点もある。「天皇の詔勅という一番の命令を、帝国議会が排除できるか」という心理面である。天皇という立場に忖度するならば、天皇の詔勅を排除して「効力を失ふ」状況にするにはとても大変な勇気がいる問題ある。これは法令という制度的問題とは別の心理面での問題であり、そこから考えると真の立憲政治とは遠いとも言える。
 例えばこの「天皇の力を排除しにくい」というできごとは度々あった。1893(明治26)年に、第四議会で民党と吏党が軍事費予算で対立したときに、明治天皇の「建艦詔勅」という皇室予算や公務員の給与削減と引き替えに軍事予算を通す旨を詔勅で論じ、民党と吏党の妥協を図った。その他にも1929(昭和4)年に田中義一首相が昭和天皇の信頼を失ったために内閣総辞職したことも忖度の一種である。

第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
 とあり、帝国議会は立法権で「天皇に同意の意思表示をする」だけの機関であるように思う。しかし、
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
 とあり、天皇は「帝国議会ノ協賛」がなければ法律を作ることができないわけで、帝国議会の力は強いことになる。「帝国議会ノ協賛」が必要ない唯一の法律は、
第74条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
 とある。つまり、「皇室典範」は帝国議会の権能の枠外ということになる。ここに抜け道ができてしまいそうであるが、
第74条2 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
 とあり、「皇室典範」を使って大日本帝国憲法を骨抜きにしようと思っても、この条項があるので出来ないのである。

第46条 両議院ハ各々其ノ総議員3分ノ1以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
第48条 両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
 第46条は日本国憲法の第56条、第48条は日本国憲法の第57条とほぼ同じである。第46条があるからこそ、初期議会(1890〜1894)において政府は吏党(政府を支持する党)だけで採決することはできず、民党の主張に左右されたのである。第48条も情報公開の原則を謳ったものであり、現在に通じている。

第52条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
 これは、日本国憲法第51条にもある。議院の自由な言論・表現を保障するために、議員の院外での発言を免責したものだ。もし、尾崎行雄議員の「共和演説事件」(尾崎が院外で「絶対あり得ないことではあるが、もし日本が共和国だったとすれば、大統領は三菱などの財閥の長が就任するだろう」と言って、天皇に対する不敬罪を問われ文部大臣を辞任した事件)も、院内での発言だったなら免責されることになる。同様に美濃部達吉が主張した「天皇機関説」も院内であれば免責される(もっとも明治憲法下では、演説・刊行をした時点で法律によって処分されるが…)

第53条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
 日本国憲法第50条の「議員の不逮捕特権」とほぼ同じ。この条項が戦前からあったなんて初めて知った。民主的だ。

第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
 とあり、国務大臣は天皇の行政権の行使に対して輔弼(助言する)ことしかできないように思えるが、次の条項で
第55条2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
 とあって、天皇は「国務大臣ノ副署」(副署=署名の際に添える署名のこと)がないと行政権を行使できないようになっている。

2.立憲政治を意識した明治憲法

 以上のように見ていくと、「大日本帝国憲法」は、立憲政治をすべて骨抜きした憲法ではないことがわかる。この憲法が1889(明治22)年に作られたというのを考えると、当時としてはやはり民主主義へ一歩前進したのではないかと思う。
 例えば1913(大正2)年に桂太郎内閣の不信任案が立憲政友会の尾崎行雄らによって提出されると、それを避けるために桂は議会を停会させた。これをきっかけに国民達が「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一次護憲運動を起こす。そしてその動きに押されて桂太郎は内閣総辞職をした。大日本帝国憲法下による初にして唯一の民衆運動による倒閣となった。また、1942(昭和17)年の第二次世界大戦下には、政府や軍の主導の「大政翼賛会」が国策遂行を確実に行う「推薦候補」を議員にすることで、第二次世界大戦の確実な勝利を目指すという通称「翼賛選挙」が行われた。その結果、大政翼賛会の推薦議員は当選議員の461人中381人が当選し、全議席の81.8%を占めるという完全に国に統制された選挙ととなった。この選挙では当時のポスターで「大東亜築く力だこの一票」などと推薦候補に強く投票を促す世論形成が至るところでも行われた。この時局においても議会を停止させず選挙を行うということは、1つに「帝国議会の存在が無視できない」という理由と、2つにこの当時に進められたファシズムという政策は結局「民主政治の究極である衆愚政治」にすることによってしか成し得ないという状況を生み出した。すなわち、1942(昭和17)年は議会制定から50年も経過しており、日本の議会政治が定着しておりその勢力を無視できないばかりか、世論を戦争に高揚させることで戦局を好転に利用したと政府が考えたと言える。ファシズムはドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ、日本は軍部による独裁と言われるが、その権力の源はどちらも国民の熱狂的な支持に支えられているという「衆愚政治」を具現化された政治状況であった。ただしドイツ、イタリアのファシズムと日本のファシズムの決定的に違う点は、主権者がファシズムに加わっていないという点である。日本の主権者は昭和天皇であった。しかし、主権者たる天皇が憲法第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という条項により、内閣等の衆議によって政治を行う点を踏まえていた「本来の主権者である天皇が主体的に統治」しないため、それを利用した軍部が内閣を操り軍部のファシズムとなっていったのである。

 では、「大日本帝国憲法の制度的限界」とは何か。それは、日本の民主主義の進展に対して憲法が追いついていなかったからではなかろうか。つまり、明治時代(というか1889年)であればこの憲法の条規でもだいぶ進んだものであった。しかし、大正デモクラシーがおこり、憲政の常道など民主主義が成熟しかけた日本の政治において、この憲法は時代にそぐわないものもなっていたでのではなかろうか。「大日本帝国憲法」の賞味期限(と言う言葉が適切かどうか疑問だが)は日本の状況からするとおよそ30年間くらいで、1919(大正8)年頃にはすでに時代遅れとなっていた。しかし、そのまま憲法が改正されなかったため、「藩閥政治用」に作られた解釈を利用して軍部が台頭した。結果、あの無謀な戦争が始まったと言えないか。
 それでもやはり「大日本帝国憲法」は内閣の規定が第55条の「国務大臣」についてしか触れて折らず、先の論文でも触れたように、戦前の日本でも政治的リーダーであった「首相」の地位に触れていない。政治的リーダーである首相が「国の最高法規」に触れられていないというのは、やはり制度的欠陥であると言わざるを得ない。この点を改めない限り(もしくは「本来の主権者である天皇が主体的に統治」しない限り)、この憲法は国の政治実態と大きく乖離したものであったと言えないだろうか。

むすびに

 さて、憲法は国の最高法規であるが、「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」はいずれも憲法改正についての手続きに触れている。つまり、時代に合わせた改正を前提に作られた憲法と言える。現在の日本国憲法は形式上は「大日本帝国憲法」の改正という手続きで作られた。しかし、これは太平洋戦争の敗北という大きな外圧の元に行われたものであり、純粋に時代に応じて改正されたとは言い難い(日本国憲法が押しつけ憲法か、自主制定憲法かということは論点から外れるのでここでは論じない)。
 日本国憲法が作られてからすでに70年以上が経過した。インターネットの普及、人権問題の追求、経済や文化のグローバリズム化、高度情報化社会と日本国憲法が施行された1948(昭和23)年とはずいぶんと状況が変化した。戦後すぐの頃から比べれば憲法改正における抵抗感が国民から確実に減った。「憲法を変える」「憲法を変えない」という視点だけではなく、「日本に住む人がより良く生活するためには政治はまず何をすべきか」ということを大前提に、憲法・法律・政治組織などの在り方を論じなければならないのではないか。ただ単に憲法の条文をいじって変えてみても、人間の生活には反映されにくい。「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」の両方でもだめで、「木を見つつ森も見る」ことが必要とされるのではないか。
 現行「日本国憲法」を部分的に変えていくのは、時の政府が中心とした雰囲気に飲まされる可能性もあり、衆愚政治の危険性がはらんでいる。であるならば、「日本国憲法」全体を国民全体が活発に議論して改正点を論じていくことが必要ではないか。そこで私が思うのは、すでに「改憲論者」と「護憲論者」が論点がズレて議論し、国民に広く広がらない盛り上がりを見ると、すでに「日本国憲法」もある意味制度的限界を迎えているのかもしれないと私は思った。

初稿:2009年1月13日
第一改訂:2020年2月23日


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