林光明殿プレゼンツ
冨樫氏末期の領国支配について

 加賀に詳しい林光明殿が、光明殿のホームページの掲示板で、私の冨樫家に関する質問に答えて頂いたものを抜粋してアップしました。冨樫氏の末期の支配体制に関することがかなり詳しく述べられていますので、特別に許可を頂いて掲載致します。

(以下林光明殿の著作−無断転載禁止−)


(1)冨樫氏末期と守護職と本願寺
 兄弟の父・冨樫稙泰は享禄の錯乱(大小一揆)という一向一揆の内部分裂のときに小一揆方(賀州三ヶ寺派)につき、破れて稙泰は長子泰俊とともに越前に亡命します。以後、天文4(1535)年5月に死ぬまで、一応肩書きは加賀守護のままです。ですから享禄4(1531)年〜天文4(1535)年の間は、実質的には守護不在となります。
 天文5(1536)年から、次男の小次郎晴貞が一揆に担がれて当主を継ぎ、元亀元(1570)年に蜂起して、現在の金沢市伝燈寺町付近で討死するまでの間、冨樫氏当主となっています。また、越前にいた泰俊の方は加賀に戻り、元亀元年の戦いの際に越前金津に逃れ、天正2(1574)年に越前金津で死んでいます。
 このあたり(晴貞の頃)になってくると、守護職の補任じたいが加賀では無意味になってきています。天文年間以後、川崎千鶴氏指摘のように、守護公権と呼ばれるもののいくつかを本願寺が握っているようです。

『天文日記』天文6年9月28日条
従上意、以奉書、来年日吉十禅師宮新礼拝講之儀、(中略)国々へ三百貫宛被懸候。
就其、此方も可三百貫出由候。是ハ加州ヲ此方令進退儀ニ付ノ由、興禅申候(以下略)

以下、読下し
上意より、奉書を以って、来年日吉十禅師宮の新礼拝講の儀、(中略)国々へ三百貫あて懸けら れ候。
其れに就き、この方も三百貫出すべき由と候。これは加州をこの方進退せしむる儀に付いての 由、興禅、申し候。(以下略)

 要は諸国守護への国役同様、本願寺に加賀への国役が懸けられたということです。また加賀国内での荘園の違乱停止と本所回復を、本願寺法主の「申付」という形で在地に伝え、荘園領主がこれに依存している史料は『天文日記』に枚挙の暇がないほどです。

いっぽう、冨樫は『天文日記』天文5年閏10月19日条に

 『天文日記』天文5年閏10月19日条
富樫小次郎方より書状ならび太刀之代百、馬代来。是ハ富樫代始祝儀ニ来。

以下、読下し
富樫小次郎方より書状ならびに太刀の代、百、馬代来る。これは富樫の代始めの祝儀に来る。

とあり、また同史料天文9年3月27日条に

『天文日記』天文9年3月27日条
従富樫為年始之礼、以書状一腰之代百疋、馬代如常、絞五具、以使者到来。

以下、読下し
富樫より年始の礼として、書状を以って一腰の代百疋、馬代は常の如し。絞り五具、使者を以 って到来す。

ともあり、お礼の品々を本願寺に送っています。明確ではありませんが、冨樫本宗家が一応特別視されていたことは間違いなく、本願寺や在地の一揆衆によって名目を保たせてもらっていたようです。

 一方で本願寺は、加賀の国政を行っていたという意識はないようです。残存している史料があまりにも少ないので断定はできませんが、国政らしいことをした形跡はあまりありません。
 これは私個人の推測ですが、本願寺は他の荘園領主などと同様に、自らの権力が及ぶ地域においての「撫民」という発想がなかったと考えてよいと思います。荘園領主など、中央の権門は貢納がきちんと行われれば良いわけで、それ以上に人的支配を及ぼすことには非常に消極的な傾向があります。本願寺の場合、信仰という意味では人的支配を行っているとは言うものの、それは政治的支配という意味ではないだろうと思います。「本願寺領国」という言い方がありますけれど、本願寺は例えば守護請など荘園の年貢請負を行っていた形跡もありません。しかし幕府や他の荘園領主などから見れば、加賀は本願寺の領国とみなされていたことは、本願寺に頼んで年貢未進を完遂してもらう場合が多々あったことを思えば容易に想像がつきます。こういう点を考えると、本願寺と加賀との関係は、非常に微妙な部分が多かったと言えるでしょう。

 本願寺への「志」は、かなり莫大な額に上り、数ヶ国の収入に匹敵するほどのものです。これはもう『天文日記』に枚挙に暇がないほどの記述があります。また、一向一揆初期の加賀国大野荘算用状では、この時期の荘園領主への貢納額が激減しており、一揆衆が手元にかなりの額の銭を残していたことも事実です。おそらくこういう銭が本願寺への「志」に使われていったのでしょう。また人的資源という意味では、平時において本願寺を警護する三十日番衆という制度があり、加賀などから三十日交替で警護に人を出していたりします。ただ、この三十日番衆も、本人が出仕している場合と、別人を雇って送っている場合があり、その性格の規定も悩ましいものがあります(笑)

 しかしこれらの銭を加賀の内政に使ったという話は、寡聞にしてありません。この莫大な経済力と、信仰による強力な人的資源の2つを本願寺は有していたわけで、これらが他勢力から本願寺を一個の独立した存在として認めさせていた最大の理由なのでしょう。

参考図書としては、
『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』神田千里著 吉川弘文館
が、最近では比較的参考になると思います。

 私は、本願寺と加賀の関係は、約100年間を何期かに分けて考えるのが妥当ではないかと思っています。というのも、本願寺の加賀に対する態度は、時期によっていくつかに分かれているからです。これらの態度や方針に基づく本願寺の行動は微妙に異なっていて、これを総称して答えを出すことは、かなり誤解を招く気がします。


 1524年(大永4)には、奥州葛西氏の使者下向にあたって、加賀国内の路地の安全を保証するよう細川高国から冨樫稙泰命じられています。幕府から守護大名に路地安全の保障を命じるのは、室町幕府の公的システムがまだ生きている証拠で、地域によってばらつきはあるのでしょうが、少なくとも加賀ではこのシステムが機能していた、ということになると思います。これとは別に、別の事例で本願寺に加賀通行の保障を本願寺に求めている事例があるものの、本願寺の場合は幕府のようなシステムではなく、相手が言ってきたのでとりあえず在地に命じた、というあくまで個別事例に対応したという気配が濃厚です。ですから加賀一向一揆の期間においても、加賀守護冨樫氏の役割は存在し続けた、ということになると思います。

 当時は土一揆にしても国一揆にしても、国政を奪って自分たちの領国を作る、という意識は当時の人々にはなかったと思いますよ。最近では加賀一向一揆は国一揆の系統に属する、つまり国衆に率いられた政治的な妥協を図る一揆の一種と考えるべき、という説が濃厚で、土一揆のような経済的一揆のような側面は見当たりません。それで加賀の場合は、相手がたまたま現職の守護であった冨樫政親だったということで、双方引くに引けずに高尾城合戦という大ごとになってしまい中央でも問題となった、という事だと思います。政親の敗死後に、少々時間はかかったものの、一揆側に担ぎ上げられた大叔父の泰高が守護になっていることを考えても、幕府の側は加賀一向一揆に対して一般的な対応をとっており、これは幕府の本願寺に対する対応とは分けて考えた方が良いような気がします。

(2)冨樫氏末期の家臣について
 もともとの高尾城は政親の代に攻め落とされてしまい、一向一揆の傀儡となってからの冨樫氏に居城があったとは考えにくく、以前から守護所のあった野々市館に住んでいたと考えられています。家臣も長享一揆(1488)のときに主だったものがほとんど討死し、わずかに残った者も本願寺門徒になってしまい、本願寺の協力で改めて家臣とさせた者がいるほどですから、その衰微ぶりは悲惨なものがあります。

本願寺の協力で改めて家臣とさせた者がいるについては、

『天文日記』天文11年閏3月15日条
従富樫小次郎為年頭礼、太刀代百疋、馬代三百疋以書状来。
又本折事、富樫被官之旨被成御下知ニ付テ、為礼太刀代五百疋以書札来。

以下、読下し
富樫小次郎より年頭の礼として、太刀代百疋、馬代三百疋、書状を以って来る。
また本折の事、冨樫被官の旨、御下知なさるに付いて、礼として太刀代五百疋、書札を以って 来る。

 

『天文日記』天文21年10月10日条
本折治部少輔為礼来間、(中略)本折自先日雖来、先年冨樫と申事候て、家子之由候ツル。

以下、読下し
本折治部少輔、礼として来るあいだ、(中略)
本折、先日より来たりといえども、先年、冨樫と申す事そうらいて、家の子の由、そうらいつる。

とあり、小松の本折一族が門徒となって以後、本願寺の協力によって冨樫の被官となったことがわかります。

(転載終了・林光明殿著作、一部抜粋・修正))


畠山義綱
 う〜ん、冨樫氏の晩年に、本願寺の協力によって冨樫氏の被官になるものがいるとは・・・。しかも、本折は元々冨樫の譜代家臣。それほどまで冨樫氏の権威は落ちていたのですね・・・。大変勉強になりました。林殿、ありがとうございます!

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