冨樫昌家特集

冨樫昌家イメージ像
↑冨樫昌家イメージ像(畠山義綱画)

☆冨樫 昌家<とがし まさいえ>(?〜1387)
 冨樫介を称す。氏春の嫡子。加賀守護。幼名竹童丸。法名・孚山浄祐居士。父・氏春が死去した時、嫡男・竹童丸が幼かった為、富樫家庶流の冨樫(額)用家が後見人となって家督を相続した。1366(貞治5)年に元服すると、上洛し、幕府に出仕している。幕府内では細川氏と懇意だった。そのため、細川氏が管領を退き畠山氏が就任すると、幕府との関係が悪化し、昌家亡き後冨樫家は加賀守護の座から下ろされてしまうのであった。
 

昌家への代替りちぇっく!
 父、氏春が死去した時期は最後の活動が知られる1357(延文)年から、死去が確認できる1361(康安元)年の間だと思われる。父が死去したとき嫡子・竹童丸(後の昌家)はまだ幼くとても元服して加賀守護となれる年齢ではなかったようだ。(注1)この竹童丸が幼いことが冨樫家に波乱を呼ぶことになる。それはかの有名な『太平記』に記されている。これによると、竹童丸が幼かったので、加賀守護職を斯波氏に与えようと佐々木道誉が画策し、それに対し細川清氏が反発しなんとか事なきを得た、というものである。実際、家督を継いだ竹童丸は1366(貞治5)年に元服するまで竹童丸の名で活動しているのが知られる(古文書B)。また元服するまでの時期は幼いままでは政治もできないので、冨樫庶流の額(冨樫)用家が後見人として実務を執った。氏春死去後の1361(康安元)年の発給文書では、氏春遺児が幼いため用家が加判したとの記録がある。


(古文書A)『太平記』巻三十六
「細川清氏背義詮子息元服事」
まず、加賀守護は冨樫介、建武のはじめより今に至るまで、一度も変することなくして、しかも忠戦他に異に、成敗暗からざるによって、恩補列祖に複せしを、冨樫介死去せし刻、その子いまだ幼稚なりとて、道誉、尾張左衛門佐を婿に取りて、当国の守護職を申し与えんとす。細川相模守これを聞きて、さる事やあるべきとて、冨樫介が子を取り立てて、すなわち守護安堵の御教書をぞ申し成りける。これによって道誉が鬱憤その一なり。
 

(古文書B)将軍・足利義詮御内書(「春日神社文書」)
春日社造替祈諸国棟別拾文事所被下綸旨也、加賀国分可致厳密沙汰之状如件
貞治四年二月五日  (義詮)花押
 冨樫竹童殿

昌家支配体制ちぇっく!
昌家政権は2期に大別できる。


竹童丸(昌家)政権第1期(1361?-1366)<元服前>

竹童丸の後見人:冨樫(額)用家(竹童丸が幼少のため)<?-1363?>
守護代:山川入道?

 用家は前当主氏春の晩年から守護代行を勤めており、実務能力としては高かったようだ。そのため、氏春亡き後に竹童丸の後見人となったのであろう。用家は1361(康安元)年時には老年に達していたのか、入道して沙弥源通と名乗る。守護代在職中、白山本宮と地頭大桑氏の抗争を調停したり、白山麓の禅刹祇陀寺に禁制をするなど、混乱期の冨樫家をよく治めた。その用家も1363(貞治2)年頃に死去したと言われる。その後、用家が亡くなったためか竹童丸は1364(貞治3)年に守護としての活動が見えるが、名前は変わらず幼名のままである(古文書B)。


昌家政権第2期(1366-1387)<元服後>

守護代:英田次郎四郎<1374〜>

 昌家は分国経営を守護代の英田次郎四郎に委ねて上洛し、将軍足利義満に出仕している。1378(永和4)年の祗園神輿の造営についてや、1400(応永7)年、加賀国能美郡一針村(小松市)などを石清水八幡宮雑掌に渡すなど、昌家は領国経営に関して守護代・英田に命じており、守護の領国経営関与が知られる。


昌家政治活動ちぇっく!
 昌家は1366(貞治5)年に元服したあと幕府に出仕している。在京するとなると当然幕府の権力争いに巻き込まれるようになる。当時幕府では管領の細川頼之派と斯波義将派に別れて政争を繰り広げていたが、昌家は自身の家督相続の件もあってか細川派に属していた。
 国内では、家臣に対して「守護方愛礼」(強制的な寄進)や会釈費用(接待費)などの負担を家臣にさせているたり、(古文書C)に見えるように、1372(応安)5年には加賀国内に着岸した商船から課税しようとして幕府から制止されたりするなど、守護として積極的な領国経営を行おうとする姿勢が見える。一方で家臣の動きは不安定だったようで、1377(永和3)年には額氏家(用家の子・三河守)と守護代の選任を巡って不和(古文書D)になるなど、まだまだ足元はおぼつかなかったようだ。
 このような積極的な領国経営を行った背景には、これは昌家自身の家督相続の折のように幕府ににらまれると、守護職を奪われる可能性もあるので、幕閣に気に入ら自らの地位を安定化させようと考えていたと思われる。1378(永和4)年に幕府に命じられた祗園祭の桟敷の造営について守護代・英田に命じるなど、幕府に対して積極的に仕えていた。しかし、そのような積極的な気持ちが裏目に出てしまう。1379(康暦元)年に管領・細川頼之が罷免され(康暦の政変)、次の管領として細川氏のライバルである斯波義将が就任したのである。
 それまで細川派として活躍していた昌家は、幕府内で微妙な立場に立たされた。京都では、細川派だった畠山基国・冨樫昌家・一色範光らの排斥が画策されているとの噂もあったほどである。その影響か同年には、昌家が幕府に臨川寺(山城国)の加賀国領に臨時役(臨時課税)を徴収しようとしたところ幕府に止められ、昌家がそれに応じなかったので、幕府が再度通達を出されている。さらに、翌 1380(康暦2)年に義満が保善寺に土地の寄進を命じたが、昌家が交付に応じないので、再度通達が出されることがあった。領国基盤を強化するためには税の徴収などは必要であるが、幕府権力が強いこの時期にこれほど幕府に反抗するということは関係が悪かった徴証と言えよう。それでも、1383(永徳3)年に将軍足利義満を自邸に招待した際には、献上した引き出物が10万疋に及んだり、1385(至徳2)年菅生社造営の棟別役について幕府内談衆に報告するなど、昌家は反抗する一方で、幕府に対して忠義も尽くしている。1387(嘉慶元)年に昌家が死去すると冨樫家の家督は弟の満家に継承されたが、加賀守護職は管領・斯波義将によって奪われ、その冨樫氏の分国経営は断絶したのである。新たに加賀守護に補任されたのは管領・義将の弟である斯波義種であった。幕府に守護職を奪われんとするために、積極的に細川氏に協力した昌家であったが、皮肉にもそれが災いした結果となった(加賀守護を奪われた理由については冨樫氏はなぜ加賀守護を3度も奪われたか参照)。

(古文書C)「天龍寺蔵臨川寺重書案文」
「室町将軍家御教書案」

臨川寺領加賀大野庄(石川郡)湊着岸商舟事、依懸充公事・課役、往来舟
更不出入云々、云土民嘆、云商売煩、固所被停止也、而猶不叙
用先度御教書、恣及濫責条、太招其咎歟、不日可止其責旨、載
請文可被申左右、若無承引者、可有後悔之状、依仰執達如件、
応安五年六月二日  (細川頼之)武蔵守
 冨樫介(昌家)殿

(古文書D)
「軽海郷代官僧霊康注進状」 (抜粋)
一、冨樫介(昌家)・同額参州中不和事

昌家出陣履歴ちぇっく!
 幕府に出仕して以降在京していたと見られるが、1369(応安2)年8月には南朝方の桃井直和が越中から侵入し、野々市の「冨樫城」(冨樫館のことヵ)付近まで攻められて冨樫軍と合戦になっている。この合戦は野々市で「日々夜々合戦」したと言われ、相当の激戦の末に能登の守護である吉見氏頼とその臣得田章房が救援に来たこともあり、なんとか桃井を越中に敗走させることができたのである。同年9月には桃井勢が加賀の港町である宮腰を攻撃したが、吉見勢がこれを撃退し桃井勢を越中に敗走させた(得江文書)。この戦いに冨樫氏が加勢したとの記録はないが、吉見への恩と桃井への敵対心から合戦に参加してであろうと思われる。翌1370(応安3)年には桃井を討伐するため、越中守護・斯波義将と共に桃井を攻めて越中長沢で破る活躍を挙げた。斯波と協力する珍しい場面であるが、領国加賀を守るためと、南朝に勝って幕府に恩を売り自分の地位を高めようと必死であったことであろう。また、1379(康暦元)年には康暦の政変(細川頼之の管領失脚)で中断した南朝征討戦で奈良への出陣を命じられるなど、それなりの軍事力を有しており、期待もされていたようだ。

(注釈1)
(注1)元服は早ければ12歳ほどでもできるので、この時の竹童丸はもっと幼かったのであろう。仮に昌家が元服した1366(貞治5)年時に12歳という年齢を与えるとすれば、昌家の生年は1355(文和4)年となり、やはり1357(延文)年〜1361(康安元)年の間に家督を相続するのは難しい年齢である。

参考資料
舘残翁『冨樫氏と加賀一向一揆史料』石川史書刊行会.1972年
東四柳史明(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社.1988年
室山孝「加賀の守護所と野々市」『中近世移行期前田家領国における城下町と権力-加賀・能登・越中-』所収.2016年
山田邦明「室町幕府と加賀・能登」『加能史料研究』18号.2006年
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