「進者往生極楽 退者無限地獄」旗について

(附 中世人の宗教観・来世観私考))


「進者往生極楽 退者無間地獄」
この言葉は『毛利氏黄旗組軍艦旗』と呼ばれる長善寺(広島県竹原市)蔵の旗に使われている言葉です。
「進まば往生極楽、退かば無間地獄」と読み、事に臨んで前進するならば極楽に往生し、退いてしまえば無間地獄に落ちるという意味です。
一般的にこの場合の「事」とは戦のことと考えられており、戦いで死んでも極楽に行くことができるが、退き逃げてしまえば、その場では死ななくても後で地獄に落ちるという意味で捉えられています。
この資料は石山合戦の木津川沖の合戦に従軍した黄旗組・藤原忠左ヱ門の旗という伝承があり、文の内容と相まって一向一揆の旗とされています。

しかし、これは確実に一向一揆の旗であると言い切れる資料は、現在のところ、この旗を含めて残っておりません。
この旗の他にも金沢市内に残されている『鶴丸の旗』と呼ばれる旗など、おそらく一向一揆の旗ではないかと考えられているものはいくつかあるのですけれど、なにしろ当時の人間が書き残していないものですから、本当のところはわかっていないのが実情です。
ただ1つのイメージとして、「南無阿弥陀仏」と書いたムシロ旗を掲げて戦ったというのもあります。
江戸時代に印刷刊行された『絵本拾遺信長記』という本には、「南無阿弥陀仏」と書いたムシロ旗を押し立てて一揆が攻め寄せる挿絵が描かれており、近世において、すでにこのイメージがあったことがわかります。

しかしこのイメージは、歴史的事件としての一向一揆としてみたとき、少々違和感があります。
戦いに臨む場合の一向一揆は、決して少ない人数の軍ではなく、それこそ少なく見積もっても何千という大軍でした。
当然、寺や地侍、長衆などに組織として率いられていたはずで、「南無阿弥陀仏」の旗1つで動くような烏合の衆ではなかったはずです。
ただ、彼ら一向一揆をイコール本願寺の正規軍と考える見方も、少し違うような気がします。
確かに石山本願寺膝下において、石山合戦を戦った一揆衆はそうだったかもしれませんが、加賀一向一揆の場合、戦いに臨んでの組織はあったけれども、それがそのまま何年も恒常的に続くということも考えにくいのです。

同様に一向一揆の場合、老若男女を問わず戦ったと考えるのもいかがかと思います。
年寄り女子供も関係なく信長軍に虐殺されてはいますけれど、こういう場合の史料には寺や城砦に籠っていた人々が虐殺されていると記述されており、彼らが積極的に戦ったとは記されていません。
『朝倉始末記』などにも、女房衆が残って亭主が戦いに赴いた記事があり、この点については他の戦国大名の軍兵と変わらないのです。
その意味では、戦国大名が村々に出した課役としての軍勢催促に応じたもの、とも言えるでしょう。

一向一揆が村々に出した軍勢催促については、史料が全く残っておらず、このため、推測さえできかねるものがあります。
他の戦国大名のように、1村につき数人程度の差し出しだったのか、それとも一般百姓さえも出陣したのか、または下人を差し出して一般百姓層は戦場に赴かなかったのか、等々については問題が大きすぎるので別項で述べることとし、ここでは述べません。

今は話を「進者往生極楽 退者無間地獄」の語に戻します。
この言葉については、『朝倉始末記』永正4年8月の加賀一向一揆についての記述に出てきます。

 其時和田坊主諸卒ニ向テ申シケルハ、「敵ノ方ヘ懸ル足ハ極楽浄土ヘ参ト思ヘ。
 引退ク足ハ無間地獄ノ底ニ沈ト思テ、一足モ退クベカラズ」ト教化アリケレバ、諸勢、「仰ニヤ及ブ」ト領掌シテゾ出タリケル。

この話には後日談があって、討死した男の妻が「真先ニ逃テ帰」った坊主の慰めに「御房様ノ是迄逃来テリ玉ヘバ、無間地獄に堕サセ玉フベシト痛敷存候テ、其ヲコソ嘆申候」と逃げ帰った坊主の後生を嘆く話になっていきます。
笑い話とも言える記事で、おそらく『朝倉始末記』の作者も、1つの嘲笑ばなしとして記載したのでしょう。
しかしながらこの記事には、2つの注目すべき内容が記されています。

1つは坊主の教化によって「諸勢」が奮い立ったこと、もう1つは逃げ帰ってきた坊主は「無間地獄ニ堕サセ玉フベシ」と妻が述べていることです。
この2つは当時の門徒の常識として語られている部分があり、一向一揆研究の諸先達の方々も、多かれ少なかれこのことについては追認されているところです。
ただ問題は、この後生を祈るということが、一向一揆の人々に特有なことなのか、ということなのです。

このあたり、文献史学オンリーで追いかけていく、または現代の発想で歴史を見るというようなことは、もうそろそろ止めにしてもいいのではと思っています。
附けたりとして「中世人の宗教観・来世観」と書いたのは、上述の事柄を含めて、以下の事例についても知っておいていただきたいと考えるからです。
一向一揆の場合は、後生のためには死んでも構わないという極端な例ですけれど、自分の後生を祈るということについて、中世の人々は現代人が考えるよりもはるかに真剣だったと考えています。

文献史学の面から見て、よく言われるのは、五山禅僧である雲泉大極の日記『碧山日録』寛正2(1461)年で、寛正の大飢饉に際しての都六条で餓死した子供を持った女に銭を少し与えて埋葬させ、供養の約束をしたことでしょうか。
同年3月には洛中において五山僧による餓死者の施餓鬼供養が行われたことなどもあり、生死がまさに隣り合わせしていた時期の中世びとの、心のありさまを伝えてくれています。
ここで行われた施餓鬼供養というのは、生きている飢えた人間ではなく、餓死した人々の霊を慰め救うために行われる法会です。

仏教の人間に対する供養は2つあって、1つは現代でも行われている「追善供養」です。
これは死者の冥福を祈って読経やお布施などの仏教的善根を行い、その自ら積んだ善根を死者の霊に回向すなわち手向けて死者の霊に功徳をまわすことで、よく「○○回忌」とか言われるものです。
お墓の周囲に経文を書いた卒塔婆をめぐらすのも、これに当たります。

もう1つは、あまり行われることはなくなりましたが「逆修供養」と呼ばれているものです。
これは生きている間に自分が仏事を行って、自分自身の死後の功徳とする供養でした。
たとえば全国各地にある経塚は、釈迦の入滅後56億7千万年後の、「弥勒下生の世」に自分の功徳を伝えるためのもので、逆修の一種ですし、各地の寺院などに残る「願文」も逆修資料です。
また各地の中世遺跡から出土する粗末な逆修資料など、いかに当時、貴賎を問わずに逆修が行われていたかを如実に示しています。
これらは独り仏教に限らず、キリシタンになった人々がキリスト教による来世の保証を受けて喜んだという、フロイスの『日本史』に記載されているおびただしい例もあります。

もちろん、当時の人々全てがそのように信心深かったと言うつもりはありません。
しかし無宗教であることを自任している現代人とは、全く違った観念=宗教観に支配されていたことは間違いないと思います。
現世のみを生きる現代人と違って、彼らの意識には現世と来世という二つの次元世界が、少なくとも彼らの意識の中では事実として存在していたと考えるべきです。
このように全国各地からおびただしい量の追善・逆修資料が出ていることは、当時の人々の頭の中を支配していた「来世」というものが、どれほど影響力の強いものだったかを雄弁に物語っています。

これほど強い「来世」への想いは、どこからきたのか。
一言で言ってしまえば、それだけ現実世界が厳しすぎて、頼むものは「来世」しかなかったからだと思っています。
応仁の乱直前の寛正の大飢饉では、2ヶ月間で都では8万人以上が死んだとされています。
豊作で豊かな稔りの年もあったでしょうが、それがずっと続いたわけでもなく、それこそほんの些細なことで自分達が死んでしまい、川原などに打ち捨てられてしまうかも知れないという強迫観念は、常にまとわりついていたはずです。

これらの歴史を、現代人はもっと真摯に受け止めても良いのではないでしょうか。
史料を読み、頭の中で考えるだけではなくて、自分自身の肌的感覚で知っていただきたいものがあるのです。
豊かになりすぎた私たちの生活観から歴史を考えるのは、中世びとの宗教観を考えるのは、僭越を通り過ぎて傲慢ではないのでしょうか。

しかしながら肌で感じる、触れてみるというのは、資料を触ることでもしない限り、大変難しいと思います。
だからこそ、博物館などの常設展や企画展に行かれることをお勧めします。
最近は企画展などでも考え抜かれた良質のものが多く、工夫を凝らした展示も増えてきています。
中世を知る、戦国時代を知るよすがになれば、と思います。


なお、『毛利氏黄旗組軍艦旗』の長善寺と藤原忠左ヱ門については、浅野純以氏の教示による。


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